昔の記憶

炭鉱の街

 小学校3年生から中学校卒業までの7年間を、美唄と夕張の炭鉱の街で過ごしました。札幌近郊の手稲から美唄へ引越した時は、戸惑うことが多かったのを覚えています。
 炭鉱の街は石炭産業の企業が作った‘企業城下町’と呼ばれていました。職制によって住む地域が分かれていました。炭鉱は企業ですから、炭鉱長を頂点とする会社組織です。炭鉱長→会社幹部→職員→下請け従業員という順番です。
 茶志内では炭鉱長以下の職員が住んでいた町が‘富の郷(トミノゴウ)’。当時はあまり考えなかったですが、改めて読んでみると、いかにもお金持ちの街という感じです。坑内員の方が住んでいたのが、‘住吉町’でした。職員の街はトイレも水道も家の中にありましたが、下請けさんの街では、トイレや水道は屋外の共同施設を使っていたような記憶があります。お風呂も職員の街の一部には家にありましたが、それ以外では共同浴場でした。
 炭鉱の街は家賃も電気代も水道代も浴場代も石炭もみんなタダでした。炭鉱会社が水道設備を備え、炭鉱で掘った石炭でお風呂を沸かし、地域住民に無料開放していました。病院も当時の健康保険では本人は無料だったと思います。
 ですから、高校生になって札幌へ出てきた時、よく‘電気を消しなさい!’とか‘水道が出しっぱなし!’と祖母に叱られました。結婚して家内からも同じようなことを言われます。北海道の人なのに寒がりとも言われます。石炭がタダで冬でもストーブが真っ赤になるほど暖房して生活していたためでしょうか?私は寒がりなのでクリニックも家も、できるだけ暖かくしています。
 住環境では圧倒的に職員が優遇されていた炭鉱街でしたが、お給料は坑内で働く坑内員の方が良かったと聞いています。炭鉱には事故がつきものでした。一発爆発事故が起これば命はないものというのが共通した認識でした。お墓の横には慰霊碑が立っていて、坑内に入るにはお墓の横を通って通っていたはずです。母がよく‘坑員さんの奥さんは、うちがとっても買えないような高い魚や肉をたくさん買っていく’と言っていました。
 坑内員の方には、頭の良い方も多く、その子供たちが医学部や大学にたくさん進学しました。私より、よほど優秀な大学へ進学したり、大きな会社で偉くなっている友だちもたくさんいます。
 北海道にはこうした炭鉱がたくさんありましたが、国の石炭政策や海外からの安い輸入炭で炭鉱の街は消滅しました。

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