昔の記憶

私の学生時代

 私は、昭和45年4月から札幌に住んでいます。
 その年に、札幌西高校へ入学しました。
 当時は大学区制で、入学定員の3%程度までは、
 北海道のどこからでも、札幌の高校へ進学できました。
 一番難しかったのが、
 札幌南高校、
 昔は札幌一中(いっちゅう)と呼ばれていました。
 その次が、
 札幌北高校、昔の庁立高等女学校です。
 札幌西高校は、おおよそ3番目でした。
 昔の札幌二中(にちゅう)でした。
      ■         ■
 私の父方の祖母が住んでいた、
 琴似八軒(後の西区八軒)から、
 一番通いやすかったのも選んだ理由の一つです。
 西高は自由な雰囲気が‘売り’でした。
 自分の学力と相談して、
 札幌南は無理でした。
 無理のないところが、札幌西でした。
      ■         ■
 大夕張に父親を一人残して、
 母親、私、弟の3人が札幌へ来ました。
 今から思えば、父親には悪いことをしました。
 父親は、月に1~2回、
 バスで札幌へ来ました。
 自家用車もありませんでした。
 バスの運賃が、片道1,080円程度だったと記憶してます。
      ■         ■
 お金がないので、
 母親は、八軒にあった森永製菓の工場へ、
 パートで働きに出ました。
 エンゼルパイというお菓子を作っていました。
 たまに、できそこないで廃棄処分にされるお菓子を、
 こっそり持って帰ってくれて、
 それを食べるのが楽しみでした。
      ■         ■
 当時の日本(札幌)は、
 今と比べて裕福とは言えませんでした。
 トイレは汲み取り式。
 道路は未舗装。
 下水道はなく、ドブ川に排水を流していました。
 私が高校2年生の時、昭和47年(1972年)に
 札幌オリンピックがありました。
 その時に、地下鉄南北線ができました。
 真駒内⇔北24条でした。
      ■         ■
 私は、高校生の時からケチでした。
 ケチというより、お金がなかったので、
 ケチケチ生活にならざるをえませんでした。
 お金がないので、
 街に出てラーメンを食べる時も、
 必ず安いところで食べました。
      ■         ■
 めったに食べませんでしたが、
 市役所の食堂なんかを利用しました。
 当時は滝本食品という会社が、
 市役所の食堂に入っていました。
 大通り公園が見える食堂で、
 ラーメンが300円もしなかったと思います。
 公共機関の安い食堂を利用するのは、
 今でも昔のままだと、家内に言われます。
 私は悪いことだとは思いません。
 北大生協の食堂も好きです。
      ■         ■
 それでも、小遣いが少なくなると…
 あと500円しかないのに…
 どうやって、一週間過ごそうなんて考えたものです。
 街へ出かけるのにも、バスを使うとお金がかかるので、
 よく自転車を利用しました。
 私が尊敬する、
 ニトリの似鳥昭雄社長も、
 苦労した時代に、
 毎日インスタントラーメンしか食べられず、
 トリ目になったと言われていました。
      ■         ■
 昔と今は違うと家内は言いますが…
 人間は、一度は腹ペコになって…
 あ~ぁ。
 お腹すいたなぁ~
 でも財布には、300円しかないから、
 どうしたらこれでお腹いっぱいになれるかなぁ~?
 という時期が必要だと思います。
 そういう時代を過ごした人が政治家になって、
 世の中をよくして欲しいと願っています。
 医師も同じだと思います。
 苦労を知らない人は、
 人の痛みがわかる医師にはなれません。

“私の学生時代”へのコメントを見る

TEL 011-231-6666ご相談ご予約このページのトップへ