昔の記憶

転勤か転職か?従業員不安の年の瀬

 今日は2020年12月28日(月)です。
 札幌美容形成外科は12月30日(水)まで診療を行います。
 今日の北海道新聞朝刊の記事です。
 転勤か転職か 従業員不安の年の瀬 日本製紙釧路生産撤退 「ずっと住むつもりだったのに」
 【釧路】1920年(大正9年)から釧路市内で操業する日本製紙の釧路工場が、ペーパーレス化などを理由に来年8月で紙生産を終える。ほぼ地元出身者が占める約500人の従業員の多くは、道外勤務を余儀なくされる見通しで、家族と離れて転勤するか、釧路で新しい仕事を見つけるか、年明け以降に苦渋の決断を迫られる。「まさかこんなことになるとは」。故郷で過ごすいつもの年末の風景は一変し、従業員と家族の心は揺れ動く。
 釧路工場の正社員の男性(46)は、市内の高校を卒業後、新聞用紙の生産に20年以上携わってきた。小学生の子ども2人を抱え、数年前に念願のマイホームを購入。「ずっと釧路に住み続けるつもりだったのに」。11月上旬、会社が製紙事業撤退を表明したことで、人生設計は大きく狂った。
 日本製紙は、正社員251人と関連会社約250人の雇用を守るとし、年明け以降、新しい配属先のリストを示す。このうち約9割が道外や関連会社への配置転換を伴うとみられる。
 男性は「子どもの環境を変えたくない」という妻の意向や母親の介護もあり、道内残留を希望する。だが、同社北海道工場勇払事業所(苫小牧)も洋紙生産を停止しており、望みは薄いと諦めの気持ちがよぎる。最近考えるのは身の振り方と家族のことばかり。仕事中のふとした瞬間に手が止まることが増えた。「家族も含め、みんな悩んでいる。早く決めないと」と焦りが募る。
 ある工場OBは「自分も同じ状況だったら不安で仕方がないだろう。働くモチベーションも下がるよ」と後輩の気持ちを推し量る。
 正社員と比べ、給与や待遇で差がある関連会社の従業員の戸惑いは、さらに大きい。釧路工場勤務の男性(40)は「身分をどこまで保障してくれるのか。家族で食べていけるだけの再就職先を紹介してくれるのか」。不安は膨らむばかりだ。4人家族で上の子は来年高校受験を控える。「父親の勤務地が決まらないと進路も決められないのでは。そう考えると心が締め付けられる」と目を潤ませる。
 工場関連の従業員の児童103人が通う釧路市立鳥取小の塚部一人(かずと)PTA会長(41)は「子どもたちの間でも『誰々は家を売って引っ越すそうだ』などという話が広がっている。少なくとも数十人規模が転校することになり、子どもたちの動揺は大きい」と表情を曇らせた。
 工場OB約220人でつくる日本製紙釧路工場OB会の藤原厚会長(72)は「会社はできるだけ従業員の希望をかなえる施策を取ってほしい」と訴える。
 釧路工場で歌い継がれてきた工場歌の歌詞は3番まであり、最後はこう締めくくられている。
 あゝ夕日にはえる家路はたのし あゝ夕日にはえる家路はたのし
 操業開始から100年という節目の年の瀬―。不安を抱える従業員の家族たちは、将来に一筋の光を見いだそうと、間もなく新年を迎える。(伊藤凱、今井裕紀、今井潤)

道外か、退職か―。決断を迫られる日本製紙釧路工場の従業員(茂忠信撮影)

(以上、北海道新聞より引用)

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 日本製紙、釧路の紙事業から撤退
 2020年11月9日の院長日記です。
 十條製紙じゅうじょうせいしは釧路の優良企業でした。
 2021年8月で職場が無くなるなんて、
 考えてもみなかったと思います。
 今朝の北海道新聞には、
 外国の航空会社を辞めさせられた人のことも載っていました。
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 昔の夕張には、
 たくさんの炭鉱がありました。
 昭和40年代後半(1970年代)に、
 炭鉱が閉山して人口が減りました。
 夕張に遊園地をつくったり、
 石炭の歴史村をつくったりしましたが、
 どれもうまくいきませんでした。
 私が卒業した鹿島中学校はダムの底に沈みました
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 北海道新聞に載っていた、 
 市内の高校を卒業後、
 新聞用紙の生産に20年以上携わってきた。
 小学生の子ども2人を抱え、
 数年前に念願のマイホームを購入。
 「ずっと釧路に住み続けるつもりだったのに

 とてもお気の毒です。
 工場の閉鎖は決まったと思いますが、
 従業員の不安が少しでも少なくなればと思います。

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