昔の記憶

53歳になりました

 今日は私の53歳の誕生日です。
 2006年11月11日の日記にも書きましたが、私は昭和29年(1954年)9月8日に市立札幌病院で生まれました。当時の市立札幌病院は札幌市中央区北1条西9丁目にありました。
 母親の実家が、北1条西10丁目にあったので、市立札幌病院が選ばれたのだと思います。
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 当時の写真を見ると、私の祖母が初孫の私を嬉しそうに抱いているのが写っています。
 祖母は平成10年に亡くなりましたが、私のことをとてもかわいがってくれたのを、よく覚えています。
 昭和29年の札幌は、まだ舗装されていない道路が多く、石山通りと呼ばれている、西10丁目通りも未舗装の砂利道でした。
 現在もある、桜木モータースという自動車修理工場の裏に、祖母が住んでいた2軒続きの貸家がありました。
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 今からは想像できないと思いますが、札幌市内にも馬が1000頭もいて、馬車を引っ張り働いていました。
 私が子供の頃は、春先に、乾燥した馬糞が風に乗って舞う、「馬糞風(ばふんかぜ)」が当時の市民の悩みでした。
 馬のしっぽの下に受ふん装置の装着を義務付ける条例が1954年に制定されています。のどかな時代に思えますが、馬糞の臭いは強烈でした。今でも、札幌競馬場厩舎の側を通ると、風向きによって馬糞の臭いがします。
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 子供の頃の私は丈夫な方ではなく、よく病気をしていたようです。
 母乳もあまり飲まなく、苦労して育てた様子がアルバムから伺えます。
 父親は、現在の札幌市手稲区金山にあった三菱砿業の結核療養所に勤務する薬剤師でした。
 当時の手稲は札幌郡手稲町と言い、現在の手稲本町に役場がありました。
 手稲金山には金を掘る鉱山があったそうですが、私が子供の頃にはすでに閉山していました。
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 鉱山の遺産として、ずり山があり、そこへ行くと光った石がありました。父親にその光った石をとってもらったのを、宝物のようにしていた記憶があります。
 現在、札樽(サッソン)自動車道、金山パーキングがある付近に私の家がありました。
 裏の山に登ると、石狩湾がキレイに見えて、遠くには増毛連邦が見えます。
 休日に裏山へ連れて行ってもらうのが好きでした。ですから私は今でも、山や高いところから景色を眺めるのが好きです。
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 私の両親は、53年後に自分の子供が医師になって、美容外科を開業しているとは夢にも思っていなかったと思います。
 私自身も、子供の頃に美容外科医になろうとは考えもしませんでした。
 ただ、子供の頃に見たものや、育った環境は、私の生き方に影響を与えたと思います。手稲の緑豊かで、海が見える山の近くに住んでいたので、自然が好きになっただと思います。
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 日本の美容外科では、70歳になっても現役で働いていらっしゃる先生もいらっしゃいます。
 私は、自分の定年を65歳くらいかなぁ…?と考えています。65歳だと、あと12年です。
 この一年は、私にとってとても辛い一年でした。人生、いつどんなことが起こるかわかりません。
 自分の寿命があと何年あるか?わかりませんが、少しでも世のため人のためになることをしたいと考えています。

祖母に産湯に入れてもらっている私です
53年前はタライでした

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