昔の記憶

美唄から大夕張へ

 昭和42年5月に私は、美唄市茶志内から、夕張市鹿島に引っ越しました。
 父が勤務していた、三菱茶志内炭鉱が閉山し、炭鉱病院もなくなったためです。
 夕張市は、炭鉱都市でした。
 いまでこそ、赤字再建団体として、全国的に有名になりましたが、
 昭和30年代~40年代は、日本の高度成長を支えていました。
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 ‘原料炭’という、製鉄に使うコークスの原料になる石炭を掘っていました。
 大夕張は三菱砿業㈱、今、夕張市役所がある、夕張本町などは、
 北海道炭礦汽船㈱、通称、北炭(ホクタン)の炭鉱がありました。
 北炭は、三井系の優良企業で、
 かつては、札幌グランドホテルや札幌テレビ放送(STV)の創設にも貢献した会社でした。
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 美唄から夕張までは、バスを乗り継いで行きました。
 岩見沢で夕張行きの中央バスに乗り、
 鹿の谷(シカノタニ)という停留所で、夕張本町から来た、
 大夕張行きのバスに乗り換えました。
 はじめて見る夕張市は、とにかく山の中。
 美唄にあった田んぼはどこにも見当たりません。
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 山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
 大夕張は鹿の谷から、さらにバスで1時間近くかかりました。
 クネクネとした、狭い道路をバスに揺られていました。
 清水沢(シミズサワ)という町から、
 バスは大夕張に向けてさらに山に入ります。
 私の目に入ったのは、北炭の清水沢発電所から出る、
 モウモウとした石炭の煙と、
 石炭を洗った洗浄水によって、真っ黒になった夕張川でした。
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 大夕張の手前には、シューパロ湖というダムがありました。
 森林鉄道で使ったという、三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
 ダムに向かって右奥は、キレイな水の色をしていましたが、
 大夕張炭鉱から、排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
 そのダムの遥か奥に、1,668m.の夕張岳がありました。
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 大夕張へ向かう道は、まだ未舗装で、
 横を三菱大夕張鉄道の線路が通っていました。
 とにかく、すごい山奥に来たもんだというのが印象でした。
 私は、この夕張市鹿島で中学校3年間を過ごすことになりました。
 正直なところ、美唄から大夕張への転校は私にとって憂うつでした。
 できることなら、美唄に帰りたいと思っていました。
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シューパロ湖へ自転車で行った時
私は自転車が好きな少年でした

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