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吉野家③

 2003年12月24日、吉野家の安部修仁社長は深夜に一本の電話を受けました。
 吉野家は米国カリフォルニア州にも約100店の店舗があります。海外に現地駐在員がいます。
 緊急の要件は、深夜でも早朝でも社長に直通で電話がかかります。夜中から早朝に来る電話はイヤな用件が多いのです。と社長はお話しされました。
 欧州で問題になっていたBSEが、米国で発生したという第一報でした。
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 『ヤバイ!まいったな!』というのが正直なところでした。
 輸入停止になると予測はしましたが、こんなに長く続くとは夢にも思いませんでした。
 牛肉が止まる?→何をやる?
 社長として何をやらなくてはいけないか?
 この時ほど、頭が急速回転して、いろいろなことを考えたことはなかった。
 いっぺんに、いろいろなことをグルグルと考えていた。
 自分の潜在的能力をフルに出し切って考えていた。
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 会社に向かう車の中で、商品担当常務と電話で話し、特別対策本部を設置しました。
 会社に寝泊りしながら、話し合いました。
 吉野家は東証一部上場会社です。
 12月30日が東証の大納会。それまでに方針を決定し、情報を開示しなくては会社の存亡にかかわります。
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 吉野家には直営店の他にFC店があります。
 フランチャイズ加盟店に説明するのが、12月28日と29日。
 12月24日25日26日の僅か3日間で方針を決めなければなりません。
 さすがの安部社長も、この時は本当に窮地でした。
 特別によい考えが、すぐにあったわけではありませんでした。
 吉野家は牛丼が売り物で、牛丼がダメだったらすぐに他のものに転換できる状態ではありませんでした。
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 店舗の厨房、什器、店員の教育、原材料の供給。
 どれをとっても、牛丼専用に作られているのが吉野家です。
 牛丼以外の商品を提供するのは、新しい業態を創業するのと等しい作業です。
 すべてが無い無いづくしの状態でした。
 牛肉がなくなった時に何を販売するか?
 新メニューの開発、キッチンオペレーションマニュアル、原材料の発注、店舗への供給。
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 ハードがない。
 スキルがない。
 今だからはっきり言えるけど、いいものが出せるはずがなかった。
 牛肉がなくなってから、初動の1~2ヵ月は試行錯誤の連続。
 この時に社長が一番気にかけたのが内部崩壊。
 社内がパニックになっては、一気に会社がつぶれます。
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 安部社長からリーダーへの訓示は、朝令暮改をためらうな。
 それまでの吉野家では、一番忌み嫌われていた言葉でした。
 言うことをコロコロ変えろ。
 軌道に乗せるまでは、変えることを躊躇(チュウチョ)するな。
 従業員へは
 向こう3ヵ月は何があっても怒らないでください。何があっても腹を立てないでください。と訓示しました。
 混乱の渦(ウズ)になるのを防ぐことを一番心がけました。
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 勝つまでやるから必ず勝つ。
 牛丼抜きの長い戦いがはじまりました。
 1980年に倒産を乗り切った社長だから、主力の牛丼がなくなっても、会社はつぶれませんでした。
 吉野家社員の85%は、1990年に上場して株式を公開してから入社していました。
 順風満帆に育った社員が、生きるか死ぬかの目に遭いました。
 困難を乗り越えて、軌道に乗せて、クリアーしたという体験は何ものにも代えがたい貴重な体験でした。
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 950日間のブランクを乗り越えて、2006年9月18日に牛丼が復活しました。
 午前11:00の開店前には、お客さんが並んで待ってくれました。
 開店と同時に、お客さんから自然と拍手がわきました。お客さんに勇気と感動をいただきました。
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 私は安部社長の講義を拝聴して心を打たれました。一人のリーダーの気質でここまで人を引きつけられるのは素晴らしいことです。
 どんなことがあっても決して諦めず、辛抱強く続けることの重要性を教えていただきました。

安部修仁社長です
日経ビジネスHPより引用)
(写真:村田 和聡)

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