昔の記憶
床上安静
床上安静、ショウジョウアンセイと読みます。
ベッドの上でずっと寝ていることです。
勉強も仕事もしないで一日中寝ているのです。
楽でよいなんてものではありません。
一日中ベッドの上に拘束されるのです。
ストレス以外の何ものでもありません。
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ギプスがとれた私は、ベッドの上で左下肢の牽引をしました。
骨折した時は、骨に金属(太い針金状のもの)を入れて牽引します。
ペルテスだった私は、左下肢に装具をつけて、下肢を固定し、ベッドの上にレールを敷いて、その上に脚をのせました。
下肢を貨車(コンテナをのせる台車型貨車)のような台にのせ、その台をレール(本物のレールを小さくしたようなレールでした)にのせます。
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その貨車にヒモをつけて、重石で引っ張る治療です。
注射と違って痛くはないので、最初はよかったのですが、それもつかの間…。
レールの上に下肢を固定されているので、私は一日中ベッドの上です。
隣のベッドでは、腎臓の子供が‘元気’に遊んでいます。
私の楽しみは、ベッドの上でできることに限られてしまいました。
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11月にだったので、窓の外では雪が降りました。
窓のそばまで行けば外の景色が見えますが、子供がベッドの上で起き上がったところで、空か屋根しか見えませんでした。
ベッドの上だけで、どこにも行けないというのはストレスです。
雪に触りたいという私の願いで、家族が雪を洗面器に入れて持ってきてくれたのを覚えています。
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5歳の子供が一人で入院することはできません。家族が付き添ってくれていました。
3歳下の弟がいましたので、両親はさぞ大変だったと思います。
母の実家が、北1条西10丁目にありました。
愛育病院は北3条西16丁目でした。
大人の足で歩けば10分ほどの距離です。
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私の入院では、母の実家の全面的なサポートがありました。
母方の祖母は私のことを一番可愛がってくれました。
母の弟が3人いました。どの叔父も可愛がってくれました。
母が来れない時は、叔父が来てくれて夜に泊まってくれたこともありました。
父も夜に泊まってくれました。仕事が終わってから、手稲金山から知事公館まで、国鉄バスで来てくれました。
朝は、その逆をバスで手稲金山まで通勤してくれました。
家族が一人でも病気になって入院すると、家族すべてが犠牲になり協力します。
今から思えば、祖母や母の弟(私の叔父)はよくやってくれたと思います。
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ベッドの上の楽しみは紙芝居でした。
テレビがようやく普及しはじめた頃でした。
今のように24時間番組を放送していたのではありません。
日中はテレビにも昼休みがありました。チャンネルを回しても、テストパターンの丸い画像が映るだけでした。
まして子供向けの番組は限られていました。
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私が好きだった紙芝居は、バンビだったように記憶していますが…この辺は定かでありません。
同じ紙芝居を何回もなんかいも読んでもらった記憶があります。
幼稚園の先生がお友だちが書いた絵を持ってきてくれました。
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私が通っていた幼稚園は、手稲町立手稲西幼稚園です。
担任の先生が、セイノレイコ先生(情野玲子?)先生だったと思います。
幼稚園の先生からも紙芝居をいただいた気がします。
とても優しい先生でした。
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約一ヵ月間入院して牽引治療をしたおかげで、私の症状はよくなりました。
退院の前日に許可が出て、父と地下のお風呂に入りました。
約一ヵ月ぶりにお風呂に入れてとても嬉しかったのを覚えています。
恥ずかしい話しですが、一ヵ月もお風呂に入らなかったので、垢がボロぼろ出ました。