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吉野家②

 昨日に引き続き、吉野家の安部修仁社長のお話しです。
 日経BP社から2007年3月12日に『吉野家 安部修仁 逆境の経営学』という本が出版されました。
 著者は戸田顕司さんという日経ビジネスの記者さんです。約3年間にわたり、安部社長を取材し、2006年10月2日号~11月27号まで、日経ビジネスに連載されたました。
 安部社長がいかに逆境から立ち直り、吉野家を再建させたかがよくわかります。
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 吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しました。
 その時、安部社長は30歳。将来を嘱望(ショクボウ)される幹部候補生で、前年には米国へ社命留学。倒産直前には、本社の部長格でした。
 そもそも、安部社長は、九州、福岡の工業高校を卒業後、リズム・アンド・ブルース(R&B)のバンドのリーダーとして上京しました。
 発刊間もない、まだペラペラだったアルバイトニュースで一番時給が高かったのが吉野家でした。アルバイトで生活費の足しにするつもりで入ったのがきっかけでした。
 仕事ぶりを評価されて、正社員になり、すぐに店長を任されました。
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 吉野家は、2代目社長の松田瑞穂さんの強力なパワーで、1968年からチェーン展開に進出しました。
 築地市場は比較的裕福な方がお客さんでした。ある程度価格が高くても牛丼は売れました。
 チェーン展開する時に、それまでの‘うまい!早い!’に‘安い!’をプラスしました。
 ここから安さへの探求がはじまりました。
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 1977年には店舗数が100を、1978年には200を突破しました。
 安部社長は100店の手前で、九州地区本部長に昇格していました。
 日本国内200店では足らずに、米国200店構想まで出ていました。
 「急成長時代は仕事が楽しくてしかたがなかった」
 「週80時間も喜んで働いていた」と社長は講義でお話しされました。
 しかし、急成長には落とし穴がありました。
 25→50→100と100店までは、何とかできました。
 100店→200店を一年で達成した頃には、人・物・金のすべてに赤信号が出ていました。
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 出店を急ぐあまり、まず店舗数を増やすことに主眼がおかれました。
 立地条件の悪いところにも出店するようになってしまい、結果的に不採算店を作りました。粗製濫造の店ができました。
 吉野家の旨さ(ウマサ)の秘訣は、肉、玉ねぎ、たれの絶妙なバランスにあります。
 特に、誰にも明かせない企業秘密が、たれの成分です。
 急成長で店舗数を増やした時には、伝統のたれを粉末にしたこと、フリーズドライの乾燥牛肉の利用で、味が悪化し、客離れを起こしました。
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 会社更生法が適用されると、会社の再建は管財人の弁護士さんが裁判所の許可を得てすすめます。
 吉野家の管財人になったのが、弁護士の増岡章三先生でした。
 増岡先生は再建のプロでした。吉野家の進路は急成長路線から、膨大な負債を返済し、会社を再建することに変わりました。
 安部社長は、増岡弁護士の信頼を得て、33歳の若さで取締役になりました。「若すぎる」と反対した東京地裁を増岡弁護士が説得しました。
 裁判官という、外食産業にはまったくの素人に、明快な論理で説明できる資料を作成するのが、安部取締役の仕事になりました。
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 会社更生法のおかげで、企業を安全に経営する基礎ができました。
 急成長時代には経験できなかった、安全性の実践ができました。
 外食産業がわからない裁判官に、わかるように論理を構成し、わかるように説明ができるようになりました。
 安部社長は、この倒産が何よりの学習になったとお話しされました。
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 吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しましたが、1987年には 更生計画終結。倒産の元になった債務(更生債務100億円)を完済しました。
 その後、1990年には株式をジャスダックに店頭公開。
 2000年11月には東京証券取引所第一部に上場しました。
 2001年夏には、牛丼並400円→280円に値下げし、ユニクロと並んでデフレの王者と呼ばれました。
 ところが2003年12月に、米国BSE感染問題が報じられ、2004年2月から主力商品の牛丼を提供できなくなりました。
 1980年から、わずか25年の間に、地獄を2回見たのが安部社長です。

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