医学講座
張本勲さんの右手
今日は2026年9月14日(月)です。
張本勲さんの右手のことが、
2009年1月の読売新聞に詳しく書いてありました。
[時代の証言者]最多安打 張本勲 ②右手のハンデを克服
私は1940年(昭和15年)、広島市で生まれました。両親は韓国人。上に兄と2人の姉がいて、4番目の子供でした。
食糧難の時代で、小さいころは、近くの山に登ってイモをとり、たき火で焼いて、飢えをしのいでいました。
4歳の冬のことです。その日も、土手で友達とイモを投げ入れ、焼き上がるのを楽しみに待っていたんです。すると、後ろから突然、三輪トラックがバックして、左肩にドーンと当たりました。私は、利き手の右手をたき火の中に突っ込んでしまいました。
後で聞くと、「ギャー」と声を限りに泣いたそうです。そして、気づいた誰かが呼びにいったんでしょう。駆けつけた母は半狂乱になって私を運転手からもぎとり、病院に連れていったそうです。
このやけどで、右手の指が内側に曲がったまま、まっすぐ伸びなくなってしまいました。棒きれをやっと握れるような状態です。小学5年生のころ、その指を治すために手術を受けました。無理やり開いて、2か月ぐらい鉄板を添えましたが、結局、元に戻ってしまい、治りませんでした。
私はこのハンデを抱えながら野球をしましたが、決して、人には見せませんでした。ただ、1981年に現役を引退した後、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治さんにだけは、見せたことがあります。
私が「こんな右手で、ボクは頑張ったんです」と言うと、「うっ、おまえ、こんな手で……」と涙ぐんでいました。川上さんも熊本から上京して、苦労してきた人です。私は、ホッとしました。わかってくれる人は、わかってくれるのかと。
《張本さんは右手のグラブでしっかりとボールを握れない状態で、外野手として通算2429試合に出場した。パ・リーグは1975年に指名打者制(DH)を採用したが、翌1976年にはDHを採用しないセ・リーグの巨人に移籍したため、現役生活のほとんどで守備についた。通算失策数は、プロ23年間で77個だった》
右手を、他人に見せなくなったことには理由があります。
1959年にパ・リーグの新人王をとって、広島に帰った時のことです。母と食事をしていて、「この右手がもう少し、良かったら、もっと成績も良かったのになあ」と思わず、愚痴をこぼしてしまいました。すると、母が泣き出したんです。自分がしっかり見ていなかったから、息子をそうさせてしまったという後悔の気持ちに駆られ、つらかったんでしょうね。
私は、「しまった。つまらないことを言ってしまった」と思いました。その時です。二度とそういうことは言わない、そして、人にも絶対に見せない、と心に誓いました。
4歳で右手に大きなハンデを背負った私ですが、5歳の時に再び、人生で忘れられない悲劇に、見舞われることになります。(運動部 荒井秀一)
(以上、読売新聞より引用)
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手のやけどは形成外科です。
やけどで指が曲がった状態を
瘢痕拘縮はんこんこうしゅく
…と呼びます。
今だったら4歳の子供さんに、
皮膚移植をして治せます。
曲がった指で最高の記録を残された、
張本勲さんはすばらしい方です。
川上哲治さんの、
「うっ、おまえ、こんな手で……」
…と涙ぐんでいらしたのがわかります。
手のやけどは形成外科の熱傷専門医に診てもらってください。
張本勲さんのご冥福をお祈りいたします。








