医学講座

大森清一先生①

 平成22年7月17日の日本美容外科学会で、
 大森喜太郎先生から資料をいただきました。
 私も知らなかったことが多いので…
 長文ですが引用して掲載しました。
 特に最後の部分に、
 大森清一先生の美容外科に対する思いが記載されています。
 以下の資料は’KOLBEN(三角フラスコを意味するドイツ語)
 という冊子に掲載された内容です。
 ’KOLBENがどこの出典かはわかりません。
      ■         ■ 

私の思い出

 じやんけんで負けたのが運命の分かれ道
 東京警察病院名誉院長
 大森清一
 アウトドアスポーツに熱中した学生時代
――先生のお生まれはどちらですか。
大森_東京は日本橋生まれです。家は、鮫津の浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)の下屋敷があったところの近でした。秩父銘仙の問屋をしていて、母がそこの一人娘だった。父は入り婿で、家の商売をやらずに当時の中学で物理の教師をしていました。
――すると、先生が医学の道に進まれたのは、お父さまの影響でしょうか。
大森_いや、僕が医者になったきっかけというのはそんな大層なもんじやなくてね。まあ、家が商売をしていたから多少の小金はあったわけだ。で、一高に入る前に、別に就職を考えなくてもいい専門を選ぼうと思った。医学部に入れば何年でも医局にいればいいし、その間、好きなことをやっていられるという、不届きな理由で医学部を選んだんだよ(笑)。
 だから、大学在学中もアウトドアスポーツに熱中して、ラグビーだ、水泳だ野球だと、遊んでばかり。一日の大半を戸外で過ごして、帰ってくれば食べて寝る、勉強はどうしてもなおざりだったね。
――随分健康的な学生生活でしたね(笑)。
大森_そうだね。だが、後年、この時に培った体力やバイタリティが大いに役だったのではないかな。卒業も間近になって、何科をやろうかということになった時、外科を希望したのだが、一諸にスポーツをやってきた親友もやはり外科志望だった。だけど仲が良すぎて、一諸にいたら遊んてばかりいるに違いない。そこで二人でじゃんけんをしたら、僕は負けてしまった。で、皮膚科・泌尿器科なら欠員があるということでそこに入ったんです。人生の大事を決めるにしては、ひどいもんだね(笑)。しかし、結果的には、それが僕の運命を決めたわけです。
 あざの治療から傷痕をきれいにする形成外科の道に
――そんな先生が、形成外科の確立に力を注がれるようになったのには、どんなきっかけがあったのでしょう。
大森_入局後二年半位の時、あざを治療する部屋に行くことになっている。そこに行くと百五十名位のあざの患者さんがジーッと私の治療を待っている。随分長く通ってきていてもあまりよくなっていない。人三化七のような患者を診て悩んだ。そこで、あざを治すにはどうしたらいいのかに真剣に取り組み始めたんだ。当時は若い医者は珍しい病気に取り組んで学会で発表するという風潮であったが、僕は命にかかわらない、ありふれた病気でも、実際にその病気で苦しんだり悩んだりしている人が多い病気を、ほうっておいてはいけないと思ったんだな。そこであざ治しの医者になろうと志して、ドライアイスで凍らせてあざを取るなど、一定の治療方針の確立に努めました。とはいうものの学生時代に勉強していない付けが回ってきて、知らないことばかり。必要に迫られて懸命に本を読んだものでした。
――警察病院にでられたのはいつごろですか。
大森_昭和十七年かな。当時の東大皮膚科の教授は、カビの研究などで有名な太田正雄先生でした。太田先生は木下杢太郎というペンネームで文化人としても名を知られた方であった。その太田先生は皮膚科の外科的治療にも関心を持たれていた。私が警察病院の部長になれば東大の講師になる。そうすれば一つのテーマに取り組めるということだったので、あざの治療をテーマにしていただいた。これには、先生はあまり乗り気でなかったが、三日間お願いしてやっと許可が得られた。これには、一ヵ月に一度はケースを教授にお見せするという条件付であった。
 そのうちに私は、あざを取ったあとをきれいにすることにも関心を持ち始めた。患者にとっては、傷痕がきれいになって初めて治ったと思えるのですから。当時の日本でも植皮ということが一部で行われていましたが、やはり形成外科の先進国はイギリスやアメリカで当時は、バースキーの書いた本が唯一無二のテキストでしたね。僕が日比谷の米軍図書館に通いつめて、皮膚外科のことを集めた本を書いたのもこの頃です。また東大にいた時、二年先輩の整形外科の教授の三木威勇治さんに「日本は遅れている。外国の雑誌を読め、どんどん実験しろ」と言われましたが、その助言は僕にと実に貴重だったと思います。
 「知らないことは誰にでも訊け」の精神で世界中を飛び回る
――先生は随分頻繁に外国に行かれたそうですね。
大森_そう、最初は昭和二十五年に八か月間アメリカに行った。ある時、院長がここに百万円ある。この金で誰か留学してこないか」とおっしやった。部長も誰も手を挙げないので僕がろくに英語もできないのに図々しく「行きます」と言ったんだ。なにしろ、日本には形成外科のトレーニングをできるところがないのだから、ぜひアメリカに行きたかった。便宜上、ハーバードの皮膚科の卒後教育課程に入学したが、講義はエスケープして形成外科の手術をたくさん見せてもらった。その時皮膚をどんな厚さにも切れるダーマトームという器具を見て、帰ってから警察病院の院長に購入の許可を頼んだ。
 また、相手がどこの誰でも、優秀な技術を持っていたり、優れた治療効果をあげていれば、どんどん行って教えを乞うという精神で世界を飛び回って学んだ。語学も徐々に進歩した。なかったら、また翌年出かけて行く、それでもだめならまた見せてもらう、そうやって僕は自分の技量や考えかたの水準を少しずつ上げてくることができたんだと思っています。そして、そういう僕のやり方を支持して世界を見て歩く機会を与え下さったのが、当時の警察病院院長の塩沢総一先生です。大切な恩人の一人ですね。
 国際熱傷学会での万雷の拍手が生涯最高の光栄
――先生は日本形成学会の創設者でもいらっしやいますね。
大森_いや、なりゆきでね。先に話した三木先輩が東大の形成外科、当時はまだ形成診療班でしたが、それを作って下さった。1995年には国際形成学会がスタートするなどの情勢で、三木先生と「そろそろ科として独立させないといけない」ということになり、昭和三十二年には集談会をもって、その後、形成外科学会となった。その時は「形成美容外科会」にしようという動きもあったんだ。というのも、当時は美容整形で問題があいつぎ、美容整形の医師にも正しい訓練を積んでもらうことの必要が実感されていたわけです。もっとも、日本では会費を払えば会員ということで、のちに国際学会で「会員は約四百名です」と自慢したら「すごい、それだけの人をどうやって訓練したのか」と訊かれて、冷汗をかいたこともありますが。     
――多くの国際会議を経験していらして、一番心に残っていることは?
大森_1974年の第四回国際熱傷学会で発表した時のことですね。顕微鏡下で直径一ミリほどの血管を縫って血管付の皮膚および皮下脂肪を移植する手術は、1972年頃から臨床に応用していたのだが、それをこの学会では「遊離皮弁で治す」という演題で話すことになっていた。ところが手違いで、学会の最後に出席者全員が一堂に会したしたところで発表するはめになった。終わった途端、会場は万雷の拍手に包まれたのです。中には立って何か叫んでいる人もいる。この時ほど光栄に思ったことはありませんでした。帰ってきて仲間と悦びを分かちあいましたが、心の中は躍るようでした。当時としてはまったく新しい治療法でしたから。
 その翌年、パリで開かれた国際形成外科学会では、アジア及び南半球を代表して祝辞を述べるという栄誉を得ました。これは、白人も含めた地域の代表に黄色人種の日本人がついに選ばれたという意昧て感慨深いものがありました。
――先生がこれからなさろうと思っていらっしやることは?
大森_僕は今でも何か新しいことを見つけたくてしょうがない(笑)。もう一つには美容外科にもっと日が当たるようにしたい。アメリカでは、必要に応じて若々しく見えるために美容手術を受けるのはあたりまえです。乳癌で乳房を失った女性が乳房をとりもどしたいと思うのは当然でしょう。それはみかけの良さだけでなく、心の健康にとっても大事なことです。また、若い医師を中心に「恥すかしがらないでものを訊ける会」を開くことです。海外の一流の医者や研究者も呼んで意見を聞く。聞く方も質問を用意して、知識を吸収し、大いに議論もし、進歩していってほしい。それが今の僕の願いです。
大森先生ご略歴
明治39年東京に生まれる
大正15年第一高等学校卒業
昭和6年東京帝国大学医学部卒業
     同医学部皮膚科泌尿器科副手を経て
  17年東京警察病院皮膚科泌尿器科部長
     /東京大学医学部講師
  25年アメリカ留学(形成外科を志す)
  32年日本形成外科学会誕生(創設に携わる)
  43年東京大学医学部教授(形成外科診療科)
    東京警察病院副院長
  47年同病院院長
  53年同病院名誉院長
●学会活動
 日本形成外科学会第4回・第13回会長
 日本美容外科学会第1回・第2回会長
 1975~83年国際形成外科学会理事
 83~84年国際美容外科学会(ISAPS)会長
 85年~同学会理事
 日本形成外科学会名誉会員
 日本皮膚科学会名誉会員
 日本熱傷学会名誉会員
 日本美容外科学会名誉会員(JSAPS)

om
以上、’KOLBENより引用

      ■         ■
 長文を最後まで読んでいただき、
 ありがとうございました。
 最後に書かれていた、
 美容外科にもっと日が当たるようにしたい。
 アメリカでは、必要に応じて若々しく見えるために美容手術を受けるのはあたりまえです。
 乳癌で乳房を失った女性が乳房をとりもどしたいと思うのは当然でしょう。
 それはみかけの良さだけでなく、
 心の健康にとっても大事なことです。
 この文章を読んでいただきたかったのです。
      ■         ■
 私は、日本の形成外科の創始者である、
 大森清一先生は、
 美容外科にもっと日が当たるようにし、
 美容外科が広く国民に支持され、
 受け入れられることを願っている思います。
 2つの日本美容外科学会が統合され、
 美容外科が発展すると、
 大森先生は喜ばれると思います。

“大森清一先生①”へのコメント

  1. さくらんぼ より:

    大森先生の生い立ちから、形成外科医としてのご活躍、これからの日本に望む事までわかりました。アメリカなどから見ると日本は考え方が古いですね。二つの学会が一つになり発展する事を願っています。でも 医師になった動機も形成外科医になったきっかけも 本当?と思うほどユーモラスでした。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    長文を最後まで読んでいただき、コメントをありがとうございました。じゃんけんで負けたのはほんとうだと思います。今の若い先生は給料で研修先を選びますが、昔は『お金は二の次』…のような先生が多かった気がします。

  2. 島田明宏 より:

    昭和47年、長崎県で母親が交通事故で顔を負傷した際に、大森先生に手術していただいたと申しておりました。とても感謝しております。長崎どうこうではありませんが、当時の形成では、とても外を出歩ける顔ではなかった母が人生を救われたとずっと申しております。おかげさまで、私も誕生できました。大森先生のひととなりや、御写真を拝見して、改めて感謝の念が溢れてきました。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。私は昭和47年は高校生でした。札幌オリンピックがあった年です。お母様がよくなられてよかったです。

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