昔の記憶
写真部
私は昭和49年(1974年)4月に、
札幌医大へ入学しました。
一浪して入学したので、19歳でした。
入学した頃は、
革マル派(カクマルハ)という派閥の学生が、
毎日、教室でアジ演説をしていました。
私には何だかわからないことを…
休み時間に、ずーっとしゃべっていました。
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当時は学生運動が下火になってはいましたが、
革マル派と民生派という派閥が対立していました。
私が入学する数年前には、
学生運動に端を発した殺人事件まであったほどでした。
その頃、盛んに学生運動をしていた学生も、
今ではその面影もないくらい、
おじさん先生・おばさん先生になっています。
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入学すると、熱心な先輩が、
クラブへ入ろうと勧誘してくれました。
とても人のよさそうな先輩が、
弓道部へ誘ってくれました。
弓道に興味があったというより、
その先輩に惹かれて弓道部へ入ることにしました。
ところがこれが失敗の原因でした。
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弓道を甘く考え過ぎました。
弓道部には立派な道場がありました。
北海道神宮の祭典では、
神宮で弓を引くほど、先輩は弓道の達人でした。
弓道を‘弓を引くお遊び’の延長、
程度にしか考えていなかった私は、
早々に弓道部をやめました。
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その後、しばらくクラブには入っていませんでした。
2年生になってからだったと思います。
『本間、写真部が夏休みに奥尻に撮影旅行に行くんだって』
『まだ、空きがあるそうだから一緒に行かない?』
と友人の服部くんが誘ってくれました。
『だけど、俺カメラ持ってないょ』
『俺も持ってないょ』
『カメラもってなくても、いぃらしいょ』
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奥尻に旅行に行けるという動機で、
私はカメラも持っていないのに写真部に入りました。
奥尻へはJRとフェリーで行きました。
当時は、テントと寝袋を持って行きました。
キャンプ場は『賽の河原(サイノカワラ)』というところでした。
先輩が選んだのだと思います。
どうして?賽の河原?
と今ではわかりません。
大小無数の石塔で埋め尽くされた霊場でした。
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カメラを持っていないので、当然写真は撮りませんでした。
先輩と数日間のキャンプを楽しんで撮影旅行は終わりました。
真面目な先輩が聞いたら怒ると思います。
カメラなしでもOKの写真部が気に入りました。
行っても行かなくてもOKの写真部でした。
こんな写真部の雰囲気が気に入って、
卒業まで入っていました。
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私がカメラを買ったのはそれから1年以上たってからです。
毎年夏に撮影旅行と称した旅行に行きました。
撮影もしましたが、楽しみしていたのは‘旅行’でした。
テントと寝袋は辛かったので、
翌年から、車と民宿を使うようになりました。
6年間の間に
奥尻
天売・焼尻
知床・阿寒・釧路
函館・道南
利尻・礼文
道内の離島はすべて行きました。
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利尻では、利尻岳に登り…
礼文では島の北端から南端まで歩いて縦走しました。
旅行中に毎晩先輩や後輩と楽しく話しをしました。
私の楽しい学生時代の想い出です。
写真部で知り合った先輩や後輩は
私の人生や生き方に大きな影響を与えてくれました。
写真部の先輩後輩は、真面目でいい先生ばかりです。
よい友人は人格形成に大きな影響を与えます。
先生は よい友人に恵まれよかったですね。私も中学の時は バレー部に入りましたが、すぐ そけいヘルニアになり 手術してからは 退部し 写真部に入りました。カメラは顧問の鈴木先生が貸してくださいましたが、私は暗室で現像をするのが大好きでした。どこかに行ける大学の部とは違い 撮影場所は 近所でした。私は山奥で育ったせいが みんなに 打ち解けられず 友人はあまりいなかったので 人格形成が うまくできていないまま こんな年齢になった気がします。 先生の昔の思い出はいつも情景が浮かび、目をつぶると学生時代の先生が目に浮かび、 懐かしい感じがして 大好きです。
いつも私はラジオを聴いています。リクエストした曲が かかった時は なんとなく うきうきします。 シングライクトーキングのシーズンズオブチェンジが かかりました♪ 先生の昔の記憶の日記と重なりました。
奥尻島は今とずいぶん景色が違ったでしょうね。
先生が大学生になった頃なら、30年位前でしょうか?
キレイな海は昔のままかもしれませんね。
夏にカメラを持って確かめてみてはいかがでしょうか(笑)?