医学講座
形成外科42年のあゆみ⑧
形成外科42年のあゆみ、
ようやく中学校まできたところで、
一週間のお休みが終わりました。
せっかく書き始めたので、
もう少し続けさせてください。
■ ■
私が卒業した夕張市立鹿島中学校は、
大夕張の唯一の中学校でした。
大部分の生徒は地元の高校へ進学しました。
私が中学生だった50年前は、
地元の高校に進学しないで、
進学校と呼ばれる、
函館ラサール高校や、
札幌の高校に進学する生徒もいました。
■ ■
私は家庭教師の永井先生がおすすめしてくださった、
札幌西高校と函館ラサール高校を受験しました。
幸運にも両方とも合格できました。
私は弟も札幌の中学校に進学するため、
札幌西高校に行きました。
よかったのはここまででした。
大夕張では成績優秀者の一人でしたが、
あっという間に急降下しました。
■ ■
大夕張の田舎から出て来て、
毎日、バスで通学するだけで大変でした。
とにかく人が多いのに驚きました。
毎日、通学だけで疲れました。
その上、勉強はできず…
英語の暗記はできず…
高校に入ってから劣等生になりました。
■ ■
札幌市内や道内の中学校から選抜された450人が集まったのです。
正規分布した母集団です。
大夕張では成績が優秀だったとしても…
高校に入ってから成績が落ちるのは、
当然と言えば当然の結果です。
友人はすぐにできました。
お前、英語の暗記できた?
できねぇ~。
勉強しようと思ったけど寝ちゃった。
■ ■
最初の定期試験で、
何と英語が赤点ぎりぎりでした。
英語が不得意科目になりました。
1970年5月にあった…
高校一年生はじめての中間試験。
英語の文法、
札幌西高では、
composition(コンポジション)
を略してコンポと呼んでいました。
このコンポがダメでした。
■ ■
毎日、必死に勉強したのに、
100点満点の24点でした。
21点以下が赤点だったので、
かろうじてセーフでしたが、
生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
楽勝だった人もいました。
学校をやめたくなりました。
■ ■
勉強の仕方もわかりませんでした。
高校一年生のけんいち少年は、
英語の辞書が、
手垢で黒くなるまで、
何度も繰り返して開きました。
他の教科も含めて、
勉強で苦労していました。
とても医学部へ入れるレベルではなく、
将来の展望も持てませんでした。
“形成外科42年のあゆみ⑧”へのコメント
コメントをどうぞ
そこまでは息子も同じでした。ここらでは1番の進学校でしたが各地区から1番の人が集まってくるのですから、本人の強い希望があったからですが、もう1ランク落とせばよかったと思いました。何人かは来なくなりました。でもここからが先生方と違う所です。
東大に行ったもの医学部に行った人もいました。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。私は優等生から劣等生になりました。私の友人にも東大に行った人も札幌医大に現役合格した人もいます。私は浪人しました。でも、それが自分のためにはよかったと思っています。ご子息様は立派です。
東西南北旭ヶ丘、
公立高校でここに合格したら
すごいと私が学生の頃も言われて
いましたが、足元にもおよびませんでした。
息子に負けました。
札幌西高校と函館ラサール高校の
両方の合格は本当にすばらしいと思います。
それでも上には上の生徒さんがいらして、
今まで成績が良かったのに尚の事、
お辛い思いをなさったと思いました。
そのような状況の中でも、あきらめず
努力なさったので今日の本間先生が
いらっしゃるのですね。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。札幌に出て来た頃は、バスで通学するだけで疲れてました。今だったら自転車で通学しただろうに、、、と思っています。札幌の子はできるなぁ~というのが正直な思いでした。成績が低迷して困っていました。とてもとても医学部に合格できるレベルではありませんでした。
「英語の辞書が、
手垢で黒くなるまで」
先生は努力の人ですね。
私はレベルを落とした高校に行ったので
推薦入学で短大に行きました。
お気楽でした。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。うちの奥さんも第一志望から1ランク下の安全圏をねらったと言ってました。それはそれでよかったと思います。私は毎日勉強をしていましたが、今から考えると勉強の仕方が非効率だったのだと思います。