医学講座
張本勲さん_原爆の恐怖と悲しみ
今日は2026年9月15日(火)です。
張本勲さん_ご逝去
張本勲さんの右手で、
2009年1月の読売新聞を見つけました。
とてもいい内容です。
張本さんが伝えたかった原爆のことが書いてあります。
[時代の証言者]最多安打 張本勲③原爆の恐怖と悲しみ、今も
1945年(昭和20年)8月6日、5歳の私は、広島市の段原新町(現南区)で、長屋のような家に住んでいました。
午前8時15分。母と2番目の姉と一緒に家にいました。原爆が落ちた時は、本当にピカーッと光って、ドーンという感じでした。家は爆心地から2.5キロの地点にありましたが、比治山という標高70メートルぐらいの山のふもとにあり、原爆は山の反対側に落ちました。その山が、爆風や熱線をさえぎってくれたおかげで、大きな被害を受けずにすんだのです。
その時、母は、姉と私の上に覆いかぶさってくれたようです。目を開けると、赤いものが見えたことを覚えています。後で聞くと、母の体に砕けたガラスの破片のようなものが刺さり、服に血がついていたんですね。「すぐに逃げなさい」と言われ、姉に手を握られ、近くのぶどう畑まで避難しました。
今でも、忘れられない光景があります。人々のうめき声と叫び声です。目の前で何人もの人が熱さを逃れようと、川に飛び込んでいました。忘れろと言われても、忘れられるものではありません。
父と兄は無事でした。しかし、勤労奉仕で外出していた小学生の上の姉は行方不明となり、数日後、大やけどを負った姿で、タンカで家に運ばれてきました。背が高く、私にとっては自慢の姉でした。友達には、「勲ちゃん、きれいなお姉さんがいていいね」と言われたこともあります。
被害者が多く、診察してくれる医者もいなければ、薬もありません。看病した母にとって、徐々に弱っていくのを目の前で見ているわけですから、たまったものではなかったでしょう。胸をたたいて、悲しみに耐えていました。私は、姉が亡くなった日を覚えていないんです。物心ついてから、ゆっくり思い返すと、朝方、母が大きな声で泣いていた時に、姉は亡くなったんだろうと想像しています。
《広島に投下された原爆は、地上約600メートルの上空でさく裂。広島平和記念資料館によると、1945年12月末までに、約14万人が亡くなったと推定されている。爆心地から半径2.5キロ以内の地域は特に大きな被害を受けたが、比治山の陰になった段原地区は壊滅的な被害を免れた》
4年前から、自分が被爆していたことを積極的に話すようになりました。なぜ、そうなったかというと、若者たちが戦争のことをあまりにも知らないことに気づいたからです。私たちが今、平和に暮らしていけるのは、原爆で死んでいった人々の犠牲があったからこそです。
今でも1年に1回、健康診断をするたびに、「何もなければいい」と原爆症への不安におびえています。68歳になっても、被爆の恐怖を引きずっているんです。私の中で、戦争はまだ、終わっていません。(運動部 荒井秀一)
(以上、読売新聞より引用)
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私は喝!、あっぱれ!の張本さんが、
こんなつらい目にあったことを知りませんでした。
読売新聞には他にも張本さんの記事があります。
とってもいい内容です。
偉大な記録を残された張本勲さん、
ほんとうにすばらしい方です。
心からご冥福をお祈りいたします。




