院長の休日

浜本淳二先生三回忌

 2009年8月9日の院長日記、
 濱本淳二先生を偲ぶでご紹介した、
 元北大形成外科助教授の濱本淳二先生3回忌に、
 奥様とご長男からお手紙が届きました。
 先生の遺言のエッセイが、
 原稿用紙に印刷されていました。
 みなさまにご紹介いたします。
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 故浜本淳二の三回忌にあたりごあいさつ申し上げます
 早いもので逝去の平成21年8月7日より数えて2年になります。皆さまには温かいお心づかいをいただき、感謝に堪えません。
 遺族を代表し、この場を借りて御礼申し上げます。
 同封した小文は浜本淳二の最後のエッセーです。大好きだった京都・広隆寺と弥勒菩薩の思い出をつづった作品で、本人は生前「今まで書いてきた集大成、遺言のようなものだ」と言っておりました。皆さまに読んでいただければ幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 平成23年7月30日
 喪主・浜本倫子
 施主・浜本道夫
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 『広  隆  寺』
 浜本 淳二
 父は生まれも育ちも古い京都の家である。卒業後、縁あって北海道に職を得た後、結婚、しばらくして数年間外地の政府で働き、丁度戦後一年の昭和二一年夏に京都に引き揚げてきた。そんな訳で私と二才違いの弟とはしばらく京都の中学校に通ったのである。
 京都は古いが大きな都市ではない。公共交通機関をうまく使い、後は町並みを見物し楽しみながら歩いて行くのが最も効果的だ。こうして私は身に付いた土地勘を利用して土、日には社寺仏閣、名園、名所を訪れ、歴史の生きた資料にも接し学ぶ所も多大であった。
 私は生涯、医師として北海道で働いた。悔いはない。定年退職後は、そこそこの糊口をしのぐ毎日で生活の中心に、大好きな映画鑑賞と京都旅行を据えた。映画は少年時代『満州映画協会(俗称満映)』側の官舎に住んでいた関係で満映で映画はよく見た。
 黒澤明の処女作『姿三四郎』だって昭和十七・八年ころに見た記憶がある。以後数十年、未だに映画大好き人間である、年間二百本映画館で見るのが夢だが、まだ一九八本が最高で実現していない。
 京都旅行は年一回、時に春・秋二回、四~五日から一週間の予定で妻と出かける。旅行中、単独行動になる日が必ずあり、その日はお互い全く一人で自由に行動する。言ってみれば休暇中の休日、楽日である。
 単独行動の日、私は一人で太秦の「広隆寺」を数えきれないくらい訪れている。「広隆寺」と背中合わせの東映時代村に人が大勢集まって喧噪を極め、近くに「仁和寺」、少し行くと「石庭」で人の集まる「龍安寺」がある。
 「龍安寺」「仁和寺」「時代村」には常に人の切れ目がなかった。ところが一転、太秦の「広隆寺」山門をくぐるとにわかに心地よい静寂が全身を包み込む。真言宗のこの寺は一見、小さな町寺の雰囲気と規模と大きさで、参拝者は居ないか、いてもごくわずかである。奥の方に六~七世紀、飛鳥時代の仏像の展示室がある。その中に国宝第一号とされる『弥勒菩薩』が安置されている。
 静かな表情、穏やかな全身像、愛に満ち満ちた二本の腕と十本の指の湾曲、完全という言葉にふさわしい完全無欠なお姿である。私はいくど『菩薩』の前に置かれた腰掛けに座して拝観したことだろう。
 いつのことだったか記憶に定かでないのだが『弥勒菩薩』右肩が呼吸をしているかのようにわずかに上下に動いているのを見た経験がある。一瞬目を疑った。千数百年前作成の木仏が私の眼前で右肩がゆっくりとあたかも呼吸しているように上下する。私の右肺は昭和二五年春、十七才で肺結核のため肋骨七本の切除を受けた側なのだ。まことか幻か改めて目を疑った。三十分以上も仏前の椅子に座っていたから一瞬の仮眠による錯覚だったのだろうか?
  そのとき私は『天啓』を感じた。
 私の家は先祖代々浄土宗の仏教徒一族である。残念ながら時代に流され汚濁にまみれた現代の宗教に私の関心はない。だが『弥勒菩薩』と私の間には『菩薩』が姿を見せてくれた仏以外の何者もない。
 私は難しい仏教の教理・教義は知らないし学んだこともない。ただ一つ、この体験は人生の最後の最後まで『弥勒菩薩』の愛に満ち満ちた穏やかさに包まれて生きていきたいと願った瞬間だったのかも知れないと思っている。
 浜本淳二
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 三回忌の法要に、
 このような文章を残された、
 浜本淳二先生を素晴らしいと思います。
 先生の声が聞こえてくるようです。
 私もいつか京都へ行ってみたくなりました。
 奥様、道夫様ありがとうございました。

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