昔の記憶
私の中学校時代
昨日の院長日記、
ダムに沈んだまち歩こう2020年9月で、
私の中学校時代を思い出しました。
私は医学部に入学できる成績ではありませんでした。
クラスで一番優秀だったのは、
生徒会長になった女子生徒でした。
聡明な方でした。
■ ■
私は1967年5月に美唄から大夕張に転校しました。
三菱茶志内炭鉱ちゃしないたんこうが閉山したためです。
私の父親は三菱茶志内炭鉱病院の薬剤師でした。
昔の北海道にはたくさんの炭鉱がありました。
今は地球温暖化で使わなくなっている、
石炭せきたんを掘っていました。
昔は石炭のことを黒いダイヤとまで呼んでいました。
■ ■
美唄市の茶志内中学校は、
農家の子供が半分くらい、
炭鉱の子供が半分くらい?
…だったと記憶しています。
田んぼの中にある中学校でした。
私は茶志内中学校が好きでした。
転校したくないというのが本音でした。
■ ■
はじめて大夕張の鹿島中学校に行った時は、
山奥の学校に来たなぁ~と思いました。
一番大変だったのが通学でした。
地元の子は、
つり橋を渡って通学していました。
私はこのつり橋がこわくて渡れませんでした。
わざわざ遠回りをして通学しました。
美唄に帰りたいなぁ~と思っていました。
■ ■
今ではなつかしく思い出す大夕張ですが、
転校した時には毎日嫌でたまりませんでした。
中学校でいじめられて、
警察に相談に行こうとも思いました。
私が大夕張を好きになれたのは、
いじめらた時に助けてくれた、
飛田昭くんのおかげです。
他にも友人ができて鹿島中学校が好きになりました。
手前がつり橋です