昔の記憶

私の中学校時代

 昨日の院長日記、
 ダムに沈んだまち歩こう2020年9月で、
 私の中学校時代を思い出しました。
 私は医学部に入学できる成績ではありませんでした。
 クラスで一番優秀だったのは、
 生徒会長になった女子生徒でした
 聡明な方でした。
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 私は1967年5月に美唄から大夕張に転校しました
 三菱茶志内炭鉱ちゃしないたんこうが閉山したためです。
 私の父親は三菱茶志内炭鉱病院の薬剤師でした。
 昔の北海道にはたくさんの炭鉱がありました。
 今は地球温暖化で使わなくなっている、
 石炭せきたんを掘っていました。
 昔は石炭のことを黒いダイヤとまで呼んでいました。
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 美唄市の茶志内中学校は
 農家の子供が半分くらい、
 炭鉱の子供が半分くらい?
 …だったと記憶しています。
 田んぼの中にある中学校でした。
 私は茶志内中学校が好きでした。
 転校したくないというのが本音でした。
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 はじめて大夕張の鹿島中学校に行った時は、
 山奥の学校に来たなぁ~と思いました。
 一番大変だったのが通学でした。
 地元の子は、
 つり橋を渡って通学していました。
 私はこのつり橋がこわくて渡れませんでした。
 わざわざ遠回りをして通学しました。
 美唄に帰りたいなぁ~と思っていました。
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 今ではなつかしく思い出す大夕張ですが、
 転校した時には毎日嫌でたまりませんでした。
 中学校でいじめられて、
 警察に相談に行こうとも思いました
 私が大夕張を好きになれたのは、
 いじめらた時に助けてくれた、
 飛田昭くんのおかげです
 他にも友人ができて鹿島中学校が好きになりました。

鹿島中学校があった夕張市鹿島常盤町
手前がつり橋です

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