昔の記憶

中学生1年生

 私は、中学一年の5月に、美唄市(ビバイシ)茶志内(チャシナイ)から
 夕張市鹿島(大夕張)に転校しました。
 茶志内では、美唄市立茶志内中学校に入学しました。
 当時住んでいたのは、炭鉱住宅街のはずれでした。
 周りには田んぼがありました。
      ■         ■
 私は、中学生になり、Yシャツに詰襟と呼ばれる
 いわゆる‘学生服’を着て、田んぼの中を通学していました。
 靴はもちろんゴム長靴です。
 茶志内中学校には、私が卒業した日東美唄小学校と
 茶志内中央小学校、茶志内小学校、中村小学校という
 数校の小学校から生徒が集まっていました。
      ■         ■
 日東美唄小学校が、炭鉱で働く人の子供が大部分だったのと違い、
 他の小学校は、農家の子供たちが多いのが特徴でした。
 美唄市は、明治の北海道開拓の時代から、
 屯田兵が入植し開拓をした町です。
 美唄は、アイヌ語の‘カラス貝の多いところ’という意味の
 ‘ピパオイ’に由来します。
      ■         ■
 中学校一年生の担任は、榊英子先生。
 「木ヘンに、神様のカミと書いて、サカキです」
 と自己紹介された記憶があります。
 とても素敵な、音楽の先生でした。
 明るく、元気のよい先生で、子供さんもいらっしゃったと思います。
 ピカピカの中学生になった私は、
 毎日楽しく、田んぼの中を通学していました。
      ■         ■
 茶志内中央小学校から来た、女の子が私の隣でした。
 佐々木のぶ子(漢字はわかりません)さんという、明るい子だったと記憶しています。
 今までと違う子たちと、楽しい毎日でした。
 はじめて、英語の授業がありました。
 理科の先生は、毎日白衣を着て授業に来られました。
 白衣だけで、カッコいいと思いました。
      ■         ■
 残念なことに、三菱茶志内炭鉱の閉山により、
 わずか、1ヵ月で、私は美唄市の茶志内中学校から
 夕張市の鹿島中学校へ転校することになりました。
 今でも、道央自動車道を通って札幌→旭川方面に行く時は
 茶志内パーキングで停車して、
 懐かしい美唄の山を見ています。
      ■         ■


中学1年生の私です(向かって右)
向かって左は、荒木田和生くんです

TEL 011-231-6666ご相談ご予約このページのトップへ