昔の記憶
父の誕生日
今日、3月4日は、私の父(本間寛ユタカ)の誕生日です。
大正15年3月4日に、樺太(カラフト)、今のサハリンで生まれました。
父方の祖父は、郵便局勤務で樺太に住んでいました。
豊原→泊居(トマリオロ)と転勤し、泊居で生まれのが父です。
今日で、82歳になります。
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父は、5人兄弟の2番目です。
姉が一人、弟が一人、妹が二人です。
全員歳をとっていますが、存命です。
私が子供の頃の父は、短気でよく怒っていました。
今の私に、よく似ていると思います。
(私もよく怒ります…)
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父が生まれて間もなく、祖父は樺太から札幌へ転居。
勤務先も、郵便局から国鉄に変わりました。
祖父は、郵便局でも、国鉄でも、通信関係の仕事をしていました。
父は、子供の頃から、学校の勉強はあまり得意ではなかったと言います。
普通の中学(今の高校)ではなく、札幌工業高校へ進学しました。
木材工芸科という、家具などを作る学科で、
卒業記念に、居間に置く家具(茶箪笥チャダンス)を製作したそうです。
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父の世代は、第二次世界大戦に徴兵されました。
父も、通常ですと徴兵されました。
医学、薬学の学校に進学すると、徴兵免除になったので、
仙台にあった、東北薬学専門学校へ進学しました。
父の姉が薬剤師だったことも影響したのでしょうか?
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仙台で薬学を勉強して、薬剤師になりました。
戦争も終戦になりました。
札幌へ戻った父は、終戦の年、昭和20年9月に、
現在のJA北海道厚生連の前身である、
北海道農業会本部厚生部に勤務しました。
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薬剤師として、鵡川(ムカワ)厚生病院などに勤務したそうです。
北海道農業会を退職して、
築別炭鉱病院薬局→三菱砿業㈱手稲療養所薬局と
炭鉱病院の薬局に定年まで勤務しました。
退職後の昭和61年4月から、
秋山愛生舘㈱大曲物流センターに管理薬剤師として勤務。
昭和63年3月31日に秋山愛生舘㈱を退職。
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その後は、一時、薬剤師人材斡旋会社などで働いていました。
アポテーカバンク北海道という会社でした。
一生に一度だけ、そこの社長になりました。
数年前までは、たまに頼まれて薬剤師の仕事をしていました。
ここ2~3年は、もっぱらチェリーの散歩が日課になっていました。
そのチェリーも昨年6月に亡くなりました。
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薬剤師だけあって、薬のことは何でもよく知っています。
私は、何かわからないことがあると、すぐに電話で聞きます。
電話をすると、たいてい母が出ます。
私「じいちゃんは?」
かわるね。
父「あぁ。どうした…?」「あぁ。そうか。」
会話は短く、用件はすぐに終わります。
親子の会話はあまりありませんが、
父も、この日記を読んでくれています。
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私が、札幌西高校へ進学した、昭和45年から、
三菱南大夕張炭鉱病院を退職した、昭和61年まで、
16年間も、父は夕張で単身生活をしていました。
当時、三菱南大夕張病院には、数人の先生がいました。
父を含めて、単身赴任が過半数でした。
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私は、子供の頃はよく父と喧嘩をしていました。
父が、60歳台~70歳台までは、よく喧嘩をしていました。
『クソおやじ!』とよく怒っていました。
さすがに、最近はあまり喧嘩をしません。
私は、よく父と喧嘩をしていましたが、
子供の教育のために、
単身生活をしてくれた父に感謝しています。
大学に合格した時も
医師免許を取得した時も
一番先に報告したのは父でした。
特に、一浪で、札幌医大に合格した時には喜んでくれました。
昨年暮れには、急性胆嚢炎になって入院しましたが回復しました。
このまま、ボケ老人にならず、元気でいて欲しいと願っています。