昔の記憶

お葬式

 今から50年近く前のことです。
 私は、札幌郡手稲町に住んでいました。
 父が勤務していた、三菱砿業㈱手稲療養所の職員住宅です。
 幼稚園へ入園する前に、
 近所の、仲良しだった男の子が亡くなりました。
 内科の先生の一人息子でした。
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 お湯で大ヤケドをして、亡くなってしまいました。
 私は、ヤケドの治療をたくさんしました。
 受傷直後から、どのような経過をとって亡くなったかよくわかります。
 子供がヤケドをすると、最初は痛いいたいと泣いています。
 救命処置をしないと、そのうちグッタリしてきます。
 大ヤケドをした時には、まず点滴をします。
 子供はショックになりやすいので、まず点滴をします。
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 現在は、子供でも、大ヤケドの治療は救急部が担当します。
 今から50年も前のことです。
 当時、どんな点滴があったかわかりません。
 小さな子供に点滴をするのは、難しいことです。
 その子にどんな治療をしたかもわかりません。
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 父の話しですと、当時、先生は北大で研究をしていて、
 北大から手稲の社宅に帰って来て事故が起きました。
 先生は、すぐに車を手配して、
 子供を札幌医大に搬送したそうです。
 一晩、札幌医大で治療をしましたが、
 残念なことに、子供さんは帰らぬ人になってしまいました。
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 私より、少しお兄ちゃんだったと思います。
 その子のお通夜に、母に連れられて行きました。
 当時は、自宅に祭壇を作って、自宅でお通夜をしました。
 祭壇には、その子の写真といっしょに、
 大きなリンゴが供えてありました。
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 私は子供だったので、その子の死が、
 どういうものなのか、わかりませんでした。
 母親に、もう○○ちゃんとは遊べないんだよ。
 と言われた程度の記憶しかありません。
 お通夜がどういう意味を持っていたのかも、
 理解していませんでした。
 私は無邪気に、あのおリンゴ美味しそうだね。
 と言ったのだけ覚えています。
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 両親の話しですと、
 一人息子を亡くした先生は、ずっと亡くなるまで、
 息子を助けられなかったことを
 悔やんでいたそうです。
 私の父を含む同僚や医師仲間も、
 子供を助けられなかったことを悔やんでいました。
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 私が、手稲から美唄へ引越し、
 小学校3年生程度になった頃です。
 その先生が、ひょっこりと自動車で遊びにいらっしゃいました。
 当時、自家用車は珍しく、
 子供の私は、その先生の自動車を触ったり、眺めたりしていました。
 後部の窓に、『模範者』と書かれた、
 赤いステッカーが貼られていたのを覚えています。
 無事故無違反だと、ゴールド免許証ではなく、
 ステッカーをくれた時代でした。
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 先生は、車から降りると、
 しきりに私の頭を撫でてくれました。
 『けんちゃん、大きくなったなぁ!』
 『こんなに大きくなったんだぁ。もう足は大丈夫?』
 私は、当時どうして○○ちゃんのおじさん(先生)が、
 こんなに私の頭を撫でてくれるのかわかりませんでした。
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 自分がおじさんになってわかりました。
 先生は、 私を見て、
 自分の亡くなった一人息子を想い出していたのです。
 ○○も、生きていたら、こんなになっていたのだろうなぁ!
 と感慨深く私を見ていらしたのです。
 その先生とは、その後お会いした記憶はありません。
 昭和54年7月にお亡くなりになりました。
 私の父と同年代でしたが、
 父よりずっと若くしてお亡くなりになりました。
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 人間の幸せなんて、わからないものです。
 お医者さんになって、裕福に暮らしていても
 自分の子供を亡くすると、突然、不幸になります。
 平凡でも、
 親子そろって、晩御飯を食べられる家庭が一番です。
 私たち、医師がお手伝いできるのは、
 人間の生活のほんの一部です。
 もうヤケドの子供を助けることはできませんが、
 少しでも、他人に喜ばれる仕事をしたいと考えています。

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