昔の記憶
渡辺淳一先生を偲ぶ②
平成26年5月6日、北海道新聞朝刊、卓上四季です。
渡辺淳一さん
歌志内市の雑貨商に生まれ、札幌市立高女(現札幌東高)で学んだ母は、作家として活躍する息子によくこう言っていたそうだ。「おまえの浮気は治らない。病気じゃないから」―。
▼「自分にはこれまで師匠もライバルもいない。ベースになったのは母ミドリと北海道の開けっぴろげで大陸的な風土です」。渡辺淳一さんは本紙夕刊「私のなかの歴史」で、そう語っていた。
▼入れ代わり立ち代わり別の女性を実家に連れて行っても、何も聞かずにごちそうを出す。女性が遠慮していると、「どうしたの。前の人はもっと食べたわよ」とさばけた言葉をかけて気遣う。
▼やはり、「この母にしてこの作家あり」だったのだろう。「性愛」を描ききろうとする渡辺さんの創作姿勢の奥には、「永遠の女性像」として愛する母の面影があったのではないか。
▼加えて札幌医大で学んだ医学者のまなざし。解剖実習で骨肉に刻んだ「無」でしかない「死」。「いましかない」。生きている間に思い切り自分を生きる。たとえその道行きの先に闇や地獄が待っていても。根底に横たわる“生の賛歌”がファンを魅了した。
▼渡辺淳一さんが、80歳で逝った。膨大な原稿用紙のマス目を埋める鉛筆の硬さが、2Bから4Bになった、と語っていたのが70歳を過ぎたころ。年を重ねなお、“軟らかさ”を増す筆が描き出す生々しい人間世界を、まだまだ読ませてほしかった。
(以上、北海道新聞より引用)
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渡辺淳一先生のお母様のことは知りませんでした。
やはり私にはまねのできない先生です。
お母様もすごい。
▼入れ代わり立ち代わり別の女性を実家に連れて行っても、
何も聞かずにごちそうを出す。
女性が遠慮していると、
「どうしたの。前の人はもっと食べたわよ」
とさばけた言葉をかけて気遣う。
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渡辺先生の生地、上砂川(かみすながわ)も、
お母様の生地、歌志内(うたしない)も、
北海道中部、
空知地方の炭鉱町です。
私が子どもの頃には、
炭鉱街にたくさんの商店がありました。
お母様が育った商店街が目に浮かびます。
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昭和時代の炭鉱では、
爆発事故がありました。
数年に一度ですが…
大爆発で一度に数十人が亡くなることもありました。
そんな炭鉱街では、、、
一瞬にして未亡人になる女性もいました。
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炭鉱の街という、
2007年4月6日の院長日記に書いてあります。
炭鉱には事故がつきものでした。一発爆発事故が起これば命はないものというのが共通した認識でした。お墓の横には慰霊碑が立っていて、坑内に入るにはお墓の横を通って通っていたはずです。母がよく‘坑員さんの奥さんは、うちがとっても買えないような高い魚や肉をたくさん買っていく’と言っていました。
坑内員の方には、頭の良い方も多く、その子供たちが医学部や大学にたくさん進学しました。私より、よほど優秀な大学へ進学したり、大きな会社で偉くなっている友だちもたくさんいます。
北海道にはこうした炭鉱がたくさんありましたが、国の石炭政策や海外からの安い輸入炭で炭鉱の街は消滅しました。
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今は時間がなくて読めませんが、
また渡辺淳一先生の本を読んでみたいと思います。
私も80歳まであと20年です。
先輩が残された本を読んで、
自分のこれからの生き方を考えてみます。
謹んで渡辺淳一先生のご冥福をお祈りしています。