昔の記憶
濱本淳二先生の想い出④
私が1980年に北大形成外科へ入局した時、
教授が大浦武彦先生、
助教授が濱本淳二先生、
講師が杉原平樹(つねき)先生でした。
大浦先生はおおうら先生。
濱本淳二先生ははまさん。
杉原平樹先生はすぎさん。
と呼ばれていました。
■ ■
新入医局員の私が…
直接はまさん
とお呼びすることはありませんでしたが、
医局内では、
親しみを込めてはまさん
と呼ばれていました。
濱本先生のサインは…
○まるの中にはの字で、
大洋漁業のマークと同じ、
マルハでした。
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濱本淳二先生は、
何でも真面目に…
こつこつとなさるタイプの先生でした。
北大形成外科の外来には、
濱本先生が取られた、
唇裂の子どもさんの、
歯の石膏模型がたくさんありました。
唇裂の患者さんの、
顎(あご)の発育を調べるためでした。
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今はデジタルカメラで写真を撮りますが、
昔はカラースライドでした。
スライドが出来上がってから、
一枚いちまい名前を記入します。
これが大変でした。
新入医局員の仕事で…
一番大変だったのがスライド整理でした。
私たち新入医局員と、
医局の秘書さんが整理をしていました。
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術者になると、
自分自身でもカメラを持って…
写真を撮って、
自分で整理するようになります。
形成外科医は、
手術室でカメラバッグを持っているので、
どこの手術室へ行っても、
形成外科医だとわかる…
といわれていたものです。
■ ■
自分の家のアルバムを見るとわかりますが、
写真の整理というのは…
実に大変なものです。
本間家のアルバムも…
しっかり整理されているのは、
最初に生まれた長女だけです。
濱本先生のスライドは、
形成外科で一番しっかり整理されていました。
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濱本先生は、
スライドが出来上がって来ると…
その日のうちに整理なさっていらっしゃいました。
決してスライドをためませんでした。
私たちは…
たまってから…
当直の日にしよう…
とか思ってついついためてしまい…
結局大変な思いをしていました。
私が毎日日記を書くのも、
メールの返事をすぐに書くのも…
濱本淳二先生の教えのおかげです。