医学講座
高須克弥先生のお言葉【梅澤文彦先生ご逝去】
平成29年4月7日に届いた、
日本美容外科医師会ニュースです。
高須克弥先生が書かれた追悼文が掲載されていました。
謹んで引用させていただきます。
日本美容外科医師会ニュース2017年3月31日発行、117号
梅澤文彦医学博士がご逝去
平成29年1月19日に梅澤文彦先生がご逝去されました。83歳でした。
梅澤先生は1960年に慶応大学医学部をご卒業された後、十仁病院の院長として診療を行うと同時に多くの後進の指導にあたられてきました。
十仁病院は1933年「美は医の頂点にあり」をポリシーとし、故・医学博士梅澤文雄先生が開院されました。以来今日まで世界における美容整形のパイオニアとして常に最先端の技術と豊富な症例に基づき美容整形の普及とレベルアップに努められてきましたのは周知の通りです。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
梅澤文彦 医学博士
十仁病院 院長
一般財団法人日本美容医学研究会 会頭
一般社団法人日本美容外科学会 会頭
国際美容外科学会 会長
■ ■
さようなら梅澤文彦先生
また会う日まで
日本美容外科医師会会長 高須克弥
御訃報に接し、ただ茫然自失しております。梅澤文彦先生の温容に接することも、そのお声を聞くこともできなくなってしまいました。
先生は小生の十年先輩でありました。全ての人がいずれは極楽浄土に旅立たねばならないと、僧侶である小生は悟っていたつもりでありましたが、やはり先生が去ってしまわれた今、先が暗くなり、どうにもならない空虚を覚え、哀切とも痛惜とも言いようのない気持ちを味わっております。
先生と初めてお会いしたのは42年前でした。小生は30歳、文彦先生は40歳。それ以来小生は先生を学会では親分、私生活では兄貴として付き従っております。
当時、御尊父の梅澤文雄先生を盟主とする、現在の美容外科学会の前身である美容医学研究会は、修羅場を潜り技けた梁山泊の壮士のような美容整形の先生方の集まりでありました。
怯える田舎者の小童を優しく導いてくださった十仁病院の若君への御恩は忘れることが出来ません。私淑し忠誠を誓って今までお仕えしてきました。
アメリカ美容外科学会のリチャード・ウエブスター先生や国際美容外科学会のジョルジオ・フイッシャー先生、国際脂肪吸引学会のピエール・フルニエ先生、大韓美容外科の朴萬龍先生、南米美容外科学会のイヴォピタンギ先生… 梅澤文彦先生と二人三脚で世界中に人脈を拡げ、日本で盛大に国際学会を何回も開催しました。
小生が仲間入りさせていただいた当時は日陰ものだった美容外科が、梅澤先生のアイデアと仁徳で大発展し、韓国や中国でも美容整形ブームが起こりました。指導した日本美容外科学会がアジアの美容外科界の盟主になりました。梅澤会頭はどこに行っても超VIPでしたね。面白かったですね。あの輝かしい日々がつい昨日のことのように思えます。
梅澤文彦先生、高須克弥は先生の忠臣であり、子分であります。これからも後を慕ってお供して行きます。そちらでしばらくお待ちください。
転生して、この次は、二人でもっと面白いことして遊びましょう。
梅澤先生の補佐ができて幸せでした。
(日本美容外科医師会ニュースより引用)
■ ■
梅澤先生と高須先生の二人三脚で、
日本美容外科学会が成長しました。
私が参加しはじめた頃は、
高須先生が活躍されていました。
高須先生の国際学会では、
私も発表させていただきました。
なつかしい思い出です。
■ ■
私は、
日本人の美容外科に対する悪いイメージを、
♡いいイメージ♡にしてくださったのが、
高須克弥先生だと思います。
今のTVCMを見ても、
高須先生のお気持ちが理解できます。
プチ整形という言葉を考えられたのも、
高須克弥先生です。
■ ■
高須先生のお言葉通り、
日陰ものだった美容外科が、
梅澤先生のアイデアと仁徳で大発展し、
韓国や中国でも美容整形ブームが起こりました。
指導した日本美容外科学会が
アジアの美容外科界の盟主になりました。
梅澤先生が亡き後も
高須克弥先生が、
日本美容外科学会を発展させてくださることを願っています。
梅澤先生のご冥福をお祈りしています。