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消費税
平成19年11月10日朝日新聞朝刊に興味深い記事がありました。
税を問う 高率消費税暮らしは?
2025年、17%になったら…
バター断念→マーガリン
分譲マンション閑古鳥
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社会保障の給付水準を保つには、2025年度に消費税率を最大17%にする必要がある、という試算を内閣府が公表した。
「消費税17%社会」の姿を予想すると―
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2025年4月1日、消費税率が、10%から一気に17%になった。5年ぶりの引き上げだった。
この日の夕、専業主婦のAさん(42)は近所のスーパーで買い物をした。
無人のレジに買い物かごを置くと電子画面に文字が浮かび上がった。
「総額2757円(内税257円)」
ビール、バター、菓子の計1100円分には17%の標準税率が適用され、消費税額は187円。牛乳と卵、野菜、鶏肉の計1400円分は5%の軽減税率で消費税額は70円だった。
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Aさんは考え込んだ。
「今度からバターはやめて税金が安いマーガリンにしようかしら」
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年金暮らしの男性Bさん(74)は朝、テレビで政府広報を見た。2大政党の大連立に支えられ、消費税増税を実現した福沢首相がいつにない神妙な面持ちで語りかけた。
「今日から消費税が上がります。これは社会保障の財源として大切に使われます。幅広い世代が『広く薄く』負担して支え合う暮らしの安心。皆様のご理解をお願いします」
Bさんは複雑だ。「年寄りが増えると仕方ないのかもしれないが、大変な時代になったもんだ」
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派遣社員の女性Cさん(25)はこの日の夜、インターネットで検索した。
討論サイトには「業者の『益税』問題があるのに」との書き込みが。ただ、特に気になったのは「低所得者層の負担が重くなる『逆進性』がある」という指摘だった。
Cさんの月収は約23万円。先月の消費税額は約1万2千円。17%になると、8千円ほどの負担増だ。「自分のような安月給にも増税なんて……」
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分譲マンションのモデルルームは3月上旬までにぎわったが、今は閑古鳥が鳴く。営業担当の男性Dさん(35)は「需要を先食いした。しばらくは商売あがったりだ」。
エコノミストも「住宅着工数の落ち込みが長期化し、景気への悪影響も避けられない」と指摘する。
(以上、朝日新聞より引用)
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医療は保険診療は非課税。自由診療は課税です。
消費税を上げなければならない最大の理由は少子高齢化に伴う、社会保障費の増大といわれています。
私の両親を含めて、現在の高齢者はかなりの額の年金をいただいています。
この年金を支えているのが、現役世代の社会保険料です。医療費もそうです。
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年金は自転車操業なので、現在受給している人たちが払った‘貯金’ではないのです。
言葉は悪いですが、若者から前金を取って、それを原資にして払っているのが、今の年金です。
NOVAと一緒で一生懸命払ったのに、気がついたら年金会社は倒産してたのではやってられません。
2025年になると、私は71歳になっています。生きているか死んでいるかわかりませんが、もう手術も仕事もしていません(おそらく)。
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人口に占める高齢者の割合が増えていますので、今と同じ年金水準を維持しようとすると、若者が払う社会保険料が莫大になります。
消費税は1%上げると、2.5兆円も税収が増える、魔法のつえだそうです。
消費税の値上げを繰り返して、税収のつじつまを合わせていては、若い人が勤労意欲をなくします。
社会保障費の無駄や、補助金の使い方を見直して、制度を変えなくては住みよい日本になりません。
防衛省以上に官と民の癒着が強いのが厚生労働省です。第二の守屋さんは厚労省にもいると思います。
医療問題
日鋼記念病院
平成19年11月10日朝日新聞朝刊の記事です。
カレスアライアンス理事長解任余波
日鋼病院止まらぬ医師退職
救命センター休止に現実昧
救急搬送他病院の負担増す
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9月に起こった医療法人社団「カレスアライアンス」の理事長解任劇の余波が収まらない。
同法人が運営する室蘭市の日鋼記念病院では医師の退職が相次ぎ、今月末に予定される循環器科医師らの退職で、懸念される救命救急センターの休止も現実味を帯びる。
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これによって、西胆振地方の医療体制に影響が出る可能性もある。
発端は、カレスアライアンスが所有する札幌市の天使病院を、同法人と関係が深い特定医療法人「カレスサッポロ」に移管しようとした問題。同法人の理事長を務めていた西村昭男医師が主導した。
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だが、天使病院の産婦人科医師らが「移管の理由がよくわからない」「サッポロの経営状況が不透明」などと反発し、一斉に退職する意向を表明。その後、9月11日に聞かれたアライアンスの臨時理事会・臨時総会で、西村氏が理事長を解任される事態に至った。
これにより、天使病院の産婦人科医師の一斉退職は避けられた。だが、余波はアライアンスが運営し、西村氏がかつて院長を務めていた日鋼記念病院に及んだ。
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同病院では今年3月末に脳神経外科医2人が辞め、産婦人科もー人残っていた医師の退職で休診。
西村氏の解任後は、脳神経外科医ら6人が退職した。一部は補充できたが、今月末にはさらに循環器科の医師4人全員と内科の医師3人が退職する。医師がゼロになった脳神経外科は今月から休診。循環器科も医師を確保できなければ12月から休診する。
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一方、アライアンス側は医師の確保に奔走している。「救命救急センター」の存続にも大きくかかわるからだ。
同センターは、交通事故や心筋梗塞、脳卒中などの重篤な救急患者の治療にあたる3次救急医療機関。地域の指定要請を受けて知事が指定し、道内には10力所ある。
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胆振地方は日鋼記念のみで、脳神経外科と循環器科の医師がいなくなればセンターの休止を余儀なくされる。
アライアンスの林茂常務理事は「(両科で)医師が最低2人ずついれば機能は維持できる」と話すが、現時点で確保の見通しは立っていない。
同市内には肺炎や脳梗塞などの患者の治療にあたる2次救急医療機関の市立室蘭と新日鉄室蘭の二つの総合病院のほか、脳神経外科病院もあり、医療環境は比較的充実している。
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だが、同市消防本部の佐藤武雄消防長は「救命救急センターが休止になれば、2次救急の病院にするか、札幌など管外へ搬送するか判断が難しくなる」と話す。
市内の医師の1人も「ほかの救急病院への負担が大きくなり、大きな事故や災害の発生への対応に不安が出る」と懸念する。
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今年1~8月の同市内の救急搬送件数は、3月末に産婦人科医や脳神経外科医の退職が相次いだ日鋼記念が前年同期比233件減った。
これに対して市立室蘭は80件、新日鉄室蘭は30件、脳神経外科病院は53件の増加。すでに他の病院が負担増になり、この傾向は9月以降も続いている。
(以上、朝日新聞より引用)
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10月22日付けで、カレスアライアンスの勝木良雄理事長が理事長の交代に関する経緯をHPに掲載しています。
その中で、
①国の医療費抑制策の結果として、日本中の殆どの急性期病院が赤字経営を余儀なくされている。
②医師不足による各診療科医師の地方基幹病院からの撤退など、病院運営は困難な状況に追い込まれている。
③カレスアライアンスにとって大きな不利益をもたらすM&A(Mergers and Acquisitions、企業の合併・買収)を避けるために起こった理事長交替であった。
①~③の理由が書かれていました。
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医療機関が‘儲かった時代’は終わりました。
医療法人はもともと‘利益’を出すための法人ではありません。ただ、赤字になっては存続すら危うくなります。
地域医療に必要な医療法人は、行政の力を借りてでも存続させて欲しいと願っています。
医療問題
薬害肝炎
血液製剤による肝炎が問題になっています。
新聞報道にはあまり名前が出てきませんが、問題の製剤を作って売ったのは、ミドリ十字という会社でした。
赤十字(日赤)のマークが赤い+です。ミドリ十字のマークはミドリの+でした。血液製剤では圧倒的なシェアを持っていました。
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私はフィブリノゲン製剤を使ったことはありませんが、免疫グロブリン製剤は使いました。
重症の外傷、特に熱傷では重篤な感染症を起こします。今でも、免疫グロブリン製剤は使われています。
ミドリ十字の免疫グロブリン、ヴェノグロブリンI(アイ)は、日本で一番良いと言われていた製剤でした。
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ミドリ十字については、薬害エイズを作った会社だとか、フィブリノゲン製剤で肝炎を作ったとか、たくさんの批判があります。
ミドリ十字のマイナス面だけが報道されていますが、血液製剤の研究・開発では優れたものを持っていた会社でした。
問題があったのは厚生労働省との癒着です。優秀な社員もいましたが、天下り官僚が悪かったように思います。
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私が市立札幌病院に勤務していた時に、事故で下腿がグチャグチャになってしまった子供さんが搬送されて来ました。
整形外科の先生と一緒に手術をして、下肢の切断は免れました。
重篤な感染症を起こし、救急部でミドリ十字のヴェノグロブリンIを投与しました。
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幸い、感染症はおさまり、下肢も切断しなくて済みました。
極めて重症でしたが、輸血は行いませんでした。
救急部から、私が勤務していた病棟へ転科して、皮膚の処置とリハビリを行っていました。
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ある日、C型肝炎の抗体検査をしたところ、輸血もしていないのに陽性になっていました。
当時は肝炎ウイルスそのものを検査することは、保険ではできませんでした。
C型肝炎の抗体(HCV抗体)が陽性ということで、C型肝炎に感染したことが考えられました。
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輸血もしていないし、肝炎にかかるような薬剤も投与していませんでした。
お父さん、お母さんの血液も検査してみましたが陰性でした。
いろいろ検査したところ、ヴェノグロブリンIが疑われました。
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薬剤の添付文書を読んでも、ヴェノグロブリンIを投与して、HCV抗体が陽性になるとは書いていませんでした。学会報告もありませんでした。
ミドリ十字に電話で問い合わせたところ、あっさりと因果関係を認めました。
そして、HCV抗体が陽性になっても肝炎にはかからないと説明を受けました。
ヴェノグロブリンIを製造する時に、HCV抗体が陽性の人の血清を使ったのが原因でした。
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私はミドリ十字本社(大阪)から責任者を札幌まで呼んで、その子供さんの両親に説明していただきました。
ご両親は、肝炎にかかっていないし、将来も肝炎になる心配がないならと納得してくださいました。
その子供さんは大きくなり、現在は立派な社会人になられています。
もちろん、C型肝炎にはなっていません。
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どんな薬にも副作用はあるし、不可抗力というのもあります。
ただ、厚生労働省とミドリ十字という会社には隠蔽体質があり、医師や患者に必要な情報を与えていませんでした。
ヴェノグロブリンIで命が助かった人はたくさんいます。
優秀な研究者もいました。私が知っているミドリ十字の社員はとても優秀な方ばかりでした。
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残念なのは、必要な情報を十分に与えてくれなかった点です。
もし、C型肝炎にかかった人から採取した血液から作った製品だと知っていたら、私たちはヴェノグロブリンIを使いませんでした。
知っていたのは、ミドリ十字の役員と、製造担当者。厚生労働省でした。これらの心ない人たちが、薬害肝炎を作ったと思います。
医療問題
混合診療
平成19年11月8日朝日新聞朝刊の記事です。
保険外診療も併用「混合診療」、禁止は法的根拠なし 東京地裁
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患者に公的保険が適用される保険診療と、保険が適用されない自由診療を併せて受ける「混合診療」を原則禁じた国の政策が合法かどうかが争われた訴訟の判決で、東京地裁(定塚誠裁判長)は7日、「混合診療の禁止に法的根拠はない」との判断を示した。
国は患者が混合診療を受けた場合、「一体化した医療行為」とみて保険適用分の診療費も自己負担としているが、地裁は保険適用分は給付を受ける権利があるとした。
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混合診療については「医師と患者に治療の選択を任せるべきだ」との意見と、「安全を保証できない治療まで行われる」などの反対論がある。
そもそも国の禁止措置に法的根拠がないとする判断は、こうした議論の前提を揺るがすことになり波紋を広げそうだ。
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訴えていたのは、神奈川県藤沢市の清郷伸人さん(60)。
がん治療のため、保険が適用されるインターフェロン療法に加え、適用外の療法を受診。全額負担を求められることから、国の政策は健康保険法に違反すると主張し、インターフェロン分は受給の権利があることの確認を求めた。
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判決は同法の規定について「個別の診療行為ごとに給付対象かどうか判断する仕組みを採用している」と判断。
「国が複数の行為を一体とみて、混合診療を受けると給付対象分も給付が受けられないと解釈する根拠は見いだし難い」と述べた。
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国側は、高度な先進医療などで混合診療を例外的に認める制度で給付対象が限定されていることから、それ以外は給付対象にならないとも主張した。
判決は、制度上の給付対象が「給付に値する組み合わせを全体的、網羅的に見て拾い上げたものではない」として国の主張の正当性を否定。保険診療分については給付を受ける権利が清郷さんにあると結論づけた。(河原田慎一)
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厚生労働省保険局長の談話
極めて厳しい判決だ。今後の対応は関係機関と協議の上、速やかに決定したい。
(以上、朝日新聞より引用)
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読んでいてよくわからないので、眠くなるような記事です。
「混合診療」とは、歯科でムシ歯を治療して詰め物をする時に、虫歯の治療は保険ですが、被せる詰め物は保険の他に、保険外で高くても良いものを使えますというアレです。
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歯科では認められている「混合診療」が医科では認められません。
保険でキズを縫う時に、『キズが目立たない糸があります。保険外で5万円しますが、お使いになりますか?』とか
麻酔をする時に、『痛くない麻酔があります。保険外で5万円になりますが、どういたしますか?』
なんてことになると困るので、認められていないというのが国の反論材料になります。
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実際には、保険診療でもキレイに治る糸を使っていますし、痛くないように麻酔をしても追加料金はいただいておりません。
差額はすべて医療機関が負担しています。
保険が効かない抗癌剤や良い薬、良い治療法はたくさんあります。厚生労働省の仕事が最新の医学に追いついていないだけです。
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政治家や官僚は、もし自分や家族が病気になったら、どういう治療をして欲しいかを考えて国の方針を決めれば、こんな裁判は起こりません。
医療費をどう使えば、国民が安心して暮らせるかを考えて、政策を立案し実行して欲しいものです。
院長の休日
北大イチョウ並木
今日は休診日で、天気がよかったので北大のイチョウ並木を見に行きました。
北大のイチョウ並木は、北13条門から入ると両側にあります。
東西に伸びる約380mの道に、70本のイチョウがあります。
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今日もたくさんの市民や観光客が来ていました。
カメラを持った方の他に、キャンバスと絵筆を持った方もいらしています。
もう、ピークは少し過ぎていますが、まだ見ることはできます。
今頃になると、木についているイチョウの葉もキレイですが、落葉が黄色のじゅうたんになってそれもキレイです。
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イチョウ並木だけを見るのでしたら、地下鉄南北線北12条駅で降りて、北大病院を目指されると便利です。
北大病院の入り口は、北14条ですから、その手前にイチョウ並木が見えます。
車で入ることはできません。途中にゲートがあってそこで止められます。
近くの有料駐車場にとめるか、午後の時間帯でしたら、北大病院の駐車場も空いています。
病院長に叱られるかもしれませんが、空いている時間にお金を払ってとめるなら文句は言われないと思います。
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今日は家内と自転車で行きました。
自転車でしたら入構規制はありません。
北大の中は広く、構内を端から端まで歩くのは大変です。
札幌にいらして、北大を散策なさるのでしたら、自転車をおすすめします。
観光客の方にはレンタサイクルもあります。
自転車さえあれば、北18条の獣医学部や動物病院でも楽に行けます。牛が草を食べている風景がご覧になれます。
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私が北大病院で研修医をしていた25年前は、6階南側に形成外科の病棟がありました。
形成外科の病棟からは、北大の緑や黄色、赤などの自然の移り変わりがよく見えました。
今でも北大へ行くと、その頃がとても懐かしく想い出されます。
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昼食は北大生協北部店へ行きました。
12:00~13:00までが学生さんの昼休みです。12:00になると、どっと混みはじめます。
12:40頃を過ぎると、学生さんの数が減りますので、この頃がねらい目です。
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今日の昼食は私が、さんま蒲焼丼M \367、味噌汁 \31、ポテトサラダ ¥63、で合計\461。
家内が帆立塩バターラーメン \380でした。
若い学生さんや、外国人留学生に混じって食事をするのも楽しいものです。
外国人もアジア系の方から、肌の色が白い方、黒い方などさまざまです。
みなさん大学で学問をなさっていらっしゃるので、頭がよさそうな方ばかりです。
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私は北大が好きです。札幌という大都市にある緑や自然を大切にして、将来もこの大学が発展して欲しいと願っています。
機会があれば、是非、北大構内を散策なさってください。
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北大イチョウ並木にて
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三橋公平教授
平成19年11月6日の北海道新聞朝刊と朝日新聞朝刊におくやみ広告が出ていました。
ご挨拶
札幌医科大学名誉教授 夫 三橋公平 儀
11月4日午前5時34分86歳をもって永眠いたしました。
故人の固い遺志により白菊会に献体いたしました。
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三橋公平先生は、札幌医科大学解剖学第二講座の教授でした。
私は昭和51年4月から、当時札幌医大3年生(学部1年)の授業で三橋先生に解剖学を習いました。
解剖の教授というと、怖そうなイメージがありますが、実に優しい気さくな先生でした。
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一番記憶に残っているのが、腓腹筋(ヒフクキン)とヒラメ筋という下腿(ふくらはぎ)の筋肉の説明でした。
ふくらはぎの膨らんでいるところが、下腿三頭筋といわれる部分です。
浅層(浅いところ、皮膚に近いところ)にあるのが腓腹筋。深層(深いところ、腓腹筋の裏)にあるのがヒラメ筋です。
ここの筋肉が発達している方は、脚が太く見えます。
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教科書的な説明は、腓腹筋は内側頭・外側頭という筋頭を2つもち、膝関節と足関節をまたぐ二関節筋である。となります。
医学生といっても学部に入ったばかりの、若い兄ちゃんと姉ちゃんの集まりです。
こんな難しい説明を聞いていては、次第に眠くなります。医学部の講義は暗記することが多く退屈します。
三橋教授は、学生が理解していないと思われたのでしょう、突然、教卓の上に上がられました。
先生は、後ろ向きになって、ズボンの裾を上げられ、ご自身の下腿を出されました。
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『いいですか、こうしてつま先立ちになると、膨らむでしょう。ここが腓腹筋(ヒフクキン)とヒラメ筋です。』
医学部の講義で覚えていることは数少ないのですが、この三橋教授の実演だけは今でもはっきり覚えています。
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医学部に入って、一番衝撃的な実習が解剖学実習です。
三橋教授の解剖学第二講座が解剖学実習の担当でした。
解剖学実習は月水金の週三回。午後1時30分から午後5時まででした。
その日に解剖する部位が決まっていて、そのノルマが達成できないと、午後7時頃まで解剖を続けていました。
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三橋教授は他の解剖学教室の教員とともに、学生の間を回って指導してくださいました。
今でこそ、神経や血管の剖出(ボウシュツ)は得意ですが、学生にはどれが神経だか筋線維だかわかりません。
体格のよい、太って脂肪が多いご遺体に当たったグループは、時間内に終わることができず、夜まで解剖を続けていました。
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今日の死亡広告で、私の目を引いたのは、白菊会に献体したという一行でした。
白菊会とは、死後に自分の遺体を解剖学の実習用教材と提供する篤志家の組織です。
私たちが医師になるためには、必ず解剖学実習をしなくてはなりません。
解剖用のご遺体は、‘購入’するのではなく、篤志家の方が‘献体’してくださいます。
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献体は、昭和58年に公布された「医学及び歯学の教育のための献体に関する法律」によって定められています。
献体とは「自己の身体を死後、医学または歯学の教育として行われる身体の正常な 構造を明らかにするための解剖の解剖体として提供すること。」
無条件・無報酬で提供するのが決まりです。
よい医師や歯科医師を教育するために、自身の遺体を提供するのです。
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三橋教授は、札幌医科大学白菊会に、ご遺体を提供されたと思います。
現在の一年生が、来年から解剖実習を行う際か、来年の入学者が再来年に実習を行う時に、教授のご遺体と対面します。
解剖学教室の教官にとっても、名誉教授のご遺体が実習室に並んでいるのは、めったにないことだと思います。
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私は、自分の死後に、臓器提供をすることにしています。
残念なことに、私のように『組織すべてを提供』してしまった遺体は、解剖学実習には提供できません。
腎臓や心臓、肝臓、肺、膵臓など重要臓器が摘出されてしまっていては、実習にならないからです。
解剖学教室で研究させていただいたので、申し訳ない気持ちがあります。
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私は医学教育に生涯をささげられ、死してもなお学生にご自身の遺体を提供された、故三橋公平教授に心から哀悼の意を表します。
謹んで、三橋教授のご冥福をお祈りいたします。合掌。
医学講座
一年で50㌔減量
平成19年11月4日北海道新聞の記事です。
一年で50㌔減量―そのダイエット法は?
食事内容を毎日メモ 記録しカロリー把握/上限設定し制限
段階踏み途中でやめない。
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一年で五十㌔減量-そんな触れ込みでベストセラーになった。
「いつまでもデブと思うなよ」(新潮新書、735円)。
オタク評論家で大阪芸術大客員教授・岡田斗司夫さん(49)が、中年男性向けに執筆したダイエット体験記だ。
食事の記録を基本に、117㌔の体重を67㌔まで減らした岡田さんに、ダイエット法を聞いた。(町田誠)
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東京の事務所で会った岡田さんは、オシャレな中年男性といった印象。丸々としていた、かつての面影はない。
洋服もキングサイズの5LからMに。「同年代の男性に、楽してやせようと伝えたかった」と話す。
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岡田さんが実践した「レコーディンク(記録)ダイエット」は
①飲み食いしたものと時間をメモする「助走」
②食事のカロリーは記すが、制限はしない「離陸」
③摂取カロリーに上限を定める「上昇」
④他の減量法とカロリー制限を組み合わせる「巡航」、
の四段階。食事の内容や時間は自由で、脂肪分や菓子も制限せず運動もしない。ただ毎日、体重を量る。
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きっかけは「食べ歩き日記でも書こう」と食事を記録し始めたこと。やがて、体重が減り始めて驚いた。メモをとる煩わしさで、無意識に太りそうな飲食を減らしていたからだ。
「深夜に菓子をつまんだり、炭酸飲料をガブ飲みしたり…。自分がいかに“太る努力”を自覚せずに続けてきたか。肥満の理由を思い知らされた」と、メモ効果を振り返る。
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間食が減り、5ヵ月間のメモだけで体重は10㌔減。そこから「カロリーを抑えれば、もっとやせる」と、やる気が出た。
一日のカロリー上限は、自身の基礎代謝量(何もしなくても一日で消費されるカロリー)より少し多い1500㌔㌍に決めた。
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代謝量の計算法や食品のカロリーはインターネットのホームページで見つけた。カロリー表示をしている飲食店もあり、カロリー配分を工夫できる。
だが優先するのは、栄養バランスより記録。「そのうち『レモンが食べたい』とか、不足している栄養分を体が求めるようになる」という。
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大事なのは、四つの段階を省かず途中でやめないこと。カロリー制限を超えた日があっても減量を続け、好物は食べる量を減らす。
岡田さんはハンバーガーを八分のーだけ食べ、残りは捨てた経験もある。「肥満が問題視されているのに、外食産業の一人前は多すぎる。半分や三分の一の量のメニューを増やすべきです」と指摘する。
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減量中は、一時的に便秘気味になった以外は体調が良く、体が軽くなり歩く距離も増えたという。
現在は記録をやめ、一日約二千㌔㌍をとっているが、体重の増減はない。岡田さんは四段階のダイエットを一年続けたが、目安は半年という。
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肥満に詳しい札幌複十字総合健診センターの坂本真一医療参与は「(カロリー制限は)栄養バランスをとるのが正しいが、続かないと意味がない。
できない人には(岡田さんの減量法は)入り口として、選択肢の一つにはなる。ただし、運動も大切だ」としている。
(以上、北海道新聞より引用)
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2006年11月22日の日記に、『100円で痩せる方法』を書きました。
下の写真を見ていただくと、見事に痩せた効果がわかります。
新聞のチラシや雑誌の広告で見る、いい加減な痩身法ではありません。
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さあ、今日からでも遅くはありません。
継続は力なり。
決して諦めず、辛抱強く続けることが大切です。
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100㌔以上あった頃の岡田さん

現在の岡田さん。その体重差は50㌔
北海道新聞より引用
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吉野家③
2003年12月24日、吉野家の安部修仁社長は深夜に一本の電話を受けました。
吉野家は米国カリフォルニア州にも約100店の店舗があります。海外に現地駐在員がいます。
緊急の要件は、深夜でも早朝でも社長に直通で電話がかかります。夜中から早朝に来る電話はイヤな用件が多いのです。と社長はお話しされました。
欧州で問題になっていたBSEが、米国で発生したという第一報でした。
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『ヤバイ!まいったな!』というのが正直なところでした。
輸入停止になると予測はしましたが、こんなに長く続くとは夢にも思いませんでした。
牛肉が止まる?→何をやる?
社長として何をやらなくてはいけないか?
この時ほど、頭が急速回転して、いろいろなことを考えたことはなかった。
いっぺんに、いろいろなことをグルグルと考えていた。
自分の潜在的能力をフルに出し切って考えていた。
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会社に向かう車の中で、商品担当常務と電話で話し、特別対策本部を設置しました。
会社に寝泊りしながら、話し合いました。
吉野家は東証一部上場会社です。
12月30日が東証の大納会。それまでに方針を決定し、情報を開示しなくては会社の存亡にかかわります。
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吉野家には直営店の他にFC店があります。
フランチャイズ加盟店に説明するのが、12月28日と29日。
12月24日25日26日の僅か3日間で方針を決めなければなりません。
さすがの安部社長も、この時は本当に窮地でした。
特別によい考えが、すぐにあったわけではありませんでした。
吉野家は牛丼が売り物で、牛丼がダメだったらすぐに他のものに転換できる状態ではありませんでした。
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店舗の厨房、什器、店員の教育、原材料の供給。
どれをとっても、牛丼専用に作られているのが吉野家です。
牛丼以外の商品を提供するのは、新しい業態を創業するのと等しい作業です。
すべてが無い無いづくしの状態でした。
牛肉がなくなった時に何を販売するか?
新メニューの開発、キッチンオペレーションマニュアル、原材料の発注、店舗への供給。
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ハードがない。
スキルがない。
今だからはっきり言えるけど、いいものが出せるはずがなかった。
牛肉がなくなってから、初動の1~2ヵ月は試行錯誤の連続。
この時に社長が一番気にかけたのが内部崩壊。
社内がパニックになっては、一気に会社がつぶれます。
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安部社長からリーダーへの訓示は、朝令暮改をためらうな。
それまでの吉野家では、一番忌み嫌われていた言葉でした。
言うことをコロコロ変えろ。
軌道に乗せるまでは、変えることを躊躇(チュウチョ)するな。
従業員へは
向こう3ヵ月は何があっても怒らないでください。何があっても腹を立てないでください。と訓示しました。
混乱の渦(ウズ)になるのを防ぐことを一番心がけました。
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勝つまでやるから必ず勝つ。
牛丼抜きの長い戦いがはじまりました。
1980年に倒産を乗り切った社長だから、主力の牛丼がなくなっても、会社はつぶれませんでした。
吉野家社員の85%は、1990年に上場して株式を公開してから入社していました。
順風満帆に育った社員が、生きるか死ぬかの目に遭いました。
困難を乗り越えて、軌道に乗せて、クリアーしたという体験は何ものにも代えがたい貴重な体験でした。
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950日間のブランクを乗り越えて、2006年9月18日に牛丼が復活しました。
午前11:00の開店前には、お客さんが並んで待ってくれました。
開店と同時に、お客さんから自然と拍手がわきました。お客さんに勇気と感動をいただきました。
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私は安部社長の講義を拝聴して心を打たれました。一人のリーダーの気質でここまで人を引きつけられるのは素晴らしいことです。
どんなことがあっても決して諦めず、辛抱強く続けることの重要性を教えていただきました。
未分類
吉野家②
昨日に引き続き、吉野家の安部修仁社長のお話しです。
日経BP社から2007年3月12日に『吉野家 安部修仁 逆境の経営学』という本が出版されました。
著者は戸田顕司さんという日経ビジネスの記者さんです。約3年間にわたり、安部社長を取材し、2006年10月2日号~11月27号まで、日経ビジネスに連載されたました。
安部社長がいかに逆境から立ち直り、吉野家を再建させたかがよくわかります。
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吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しました。
その時、安部社長は30歳。将来を嘱望(ショクボウ)される幹部候補生で、前年には米国へ社命留学。倒産直前には、本社の部長格でした。
そもそも、安部社長は、九州、福岡の工業高校を卒業後、リズム・アンド・ブルース(R&B)のバンドのリーダーとして上京しました。
発刊間もない、まだペラペラだったアルバイトニュースで一番時給が高かったのが吉野家でした。アルバイトで生活費の足しにするつもりで入ったのがきっかけでした。
仕事ぶりを評価されて、正社員になり、すぐに店長を任されました。
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吉野家は、2代目社長の松田瑞穂さんの強力なパワーで、1968年からチェーン展開に進出しました。
築地市場は比較的裕福な方がお客さんでした。ある程度価格が高くても牛丼は売れました。
チェーン展開する時に、それまでの‘うまい!早い!’に‘安い!’をプラスしました。
ここから安さへの探求がはじまりました。
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1977年には店舗数が100を、1978年には200を突破しました。
安部社長は100店の手前で、九州地区本部長に昇格していました。
日本国内200店では足らずに、米国200店構想まで出ていました。
「急成長時代は仕事が楽しくてしかたがなかった」
「週80時間も喜んで働いていた」と社長は講義でお話しされました。
しかし、急成長には落とし穴がありました。
25→50→100と100店までは、何とかできました。
100店→200店を一年で達成した頃には、人・物・金のすべてに赤信号が出ていました。
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出店を急ぐあまり、まず店舗数を増やすことに主眼がおかれました。
立地条件の悪いところにも出店するようになってしまい、結果的に不採算店を作りました。粗製濫造の店ができました。
吉野家の旨さ(ウマサ)の秘訣は、肉、玉ねぎ、たれの絶妙なバランスにあります。
特に、誰にも明かせない企業秘密が、たれの成分です。
急成長で店舗数を増やした時には、伝統のたれを粉末にしたこと、フリーズドライの乾燥牛肉の利用で、味が悪化し、客離れを起こしました。
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会社更生法が適用されると、会社の再建は管財人の弁護士さんが裁判所の許可を得てすすめます。
吉野家の管財人になったのが、弁護士の増岡章三先生でした。
増岡先生は再建のプロでした。吉野家の進路は急成長路線から、膨大な負債を返済し、会社を再建することに変わりました。
安部社長は、増岡弁護士の信頼を得て、33歳の若さで取締役になりました。「若すぎる」と反対した東京地裁を増岡弁護士が説得しました。
裁判官という、外食産業にはまったくの素人に、明快な論理で説明できる資料を作成するのが、安部取締役の仕事になりました。
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会社更生法のおかげで、企業を安全に経営する基礎ができました。
急成長時代には経験できなかった、安全性の実践ができました。
外食産業がわからない裁判官に、わかるように論理を構成し、わかるように説明ができるようになりました。
安部社長は、この倒産が何よりの学習になったとお話しされました。
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吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しましたが、1987年には 更生計画終結。倒産の元になった債務(更生債務100億円)を完済しました。
その後、1990年には株式をジャスダックに店頭公開。
2000年11月には東京証券取引所第一部に上場しました。
2001年夏には、牛丼並400円→280円に値下げし、ユニクロと並んでデフレの王者と呼ばれました。
ところが2003年12月に、米国BSE感染問題が報じられ、2004年2月から主力商品の牛丼を提供できなくなりました。
1980年から、わずか25年の間に、地獄を2回見たのが安部社長です。
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吉野家①
昨日、北海学園大学のニトリ講座で、吉野家の安部修仁社長の講義を受講してきました。
私はヨシギュウが好きです。並盛とポテトサラダを注文するのが定番です。東京へ出張へ行った時もよく利用していました。
男が一人で入りやすく、価格も手ごろです。うまい、安い、早いのが好きです。
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安部修仁社長は1949年9月14日生まれ。矢沢永吉さんと同じ誕生日だそうです。
福岡県出身で音楽を志して上京。1972年(昭和47年)に、吉野家へ学生アルバイトとして勤務。正社員に昇格し、社長になった方です。
吉野屋は、1899年(明治32年)に東京日本橋の魚河岸で創業しました。当時、東京の台所は日本橋にありました。
大阪から上京した、松田栄吉さんが屋台ではじめたのがはじまりです。その後、魚河岸が築地に移り、現在も吉野家築地店として残っている店が発祥の地です。
松田さんの出身地が、大阪吉野町だったので‘吉野家’になりました。
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魚河岸の朝は早く、夜明けとともにはじまり、正午過ぎには終わってしまいます。
築地市場で働く人たちは、食のプロばかりです。味にうるさい大勢の人たちが、長靴のまま店に入り、短時間で食事を済ませます。
すべての動きが通常の3倍速。ビデオの早送り状態で、注文し、牛丼が出てきます。
吉野家のクイックサービスは築地市場で培われ(ツチカワレ)ました。
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築地市場は、限られた人たちだけが集まる場所です。
今でこそ外国人観光客の観光スポットの一つですが、当時は、朝から激しい動きをする大勢の人たちだけのclosedな世界でした。
吉野家の特徴は‘繰り返し食べても飽きが来ない後味’。
‘うまかった!また来よう!という食後感’です。
これは築地市場という閉鎖されたマーケットで、‘いつものお客さん’の満足度を高めなければ生き残れない環境で育まれ(ハグクマレ)ました。
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創業店といえども、大きな店ではありません。10坪もないような小さなお店です。客席は15席もありません。
この小さな店で、午前5:00~正午までに、約1000人のお客さんが来店します。
早さや、客席回転率は並みのものではありません。
常に満席で、中には立ったまま食べるお客さんもいらっしゃいます。
安部社長でも、築地店の店長は大変だったそうです。
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築地店のリーダーは、お客さんが店に入った瞬間に(注文が出る前)、牛丼を作ります。
お客さんの顔とオーダーを一人ずつ覚えていて、席に着いたらすぐに(たのんでもいないのに)注文通りの牛丼が出てきます。
入店からわずか5~10秒で牛丼が出てくるのは、世界一です。
この早く待たせないというスピードがお客さんへの一番のサービスです。
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安部社長おすすめのメニューはプレーンです。
頭の大盛(アタマのオオモリ)を一度注文してみてください。
ご飯の量は普通で、具だけ大盛です。このオーダーが出ると、‘この人はプロだ!’と店は緊張するそうです。
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吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しました。
2003年12月24日には、米国BSE感染問題が報じられ、看板の牛丼を提供できなくなりました。
2006年9月18日に牛丼が復活するまで950日間の牛丼ブランクがありました。
波乱万丈の吉野家について、少しずつ書いてみたいと思います。
ヨシ牛が食べたくなりました。今度は頭大盛をオーダーします。
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