昔の記憶
故桂信雄市長、実直な人柄 惜しむ声
今日は2020年11月25日(水)です。
昨日の桂信雄・元札幌市長ご逝去の続きです。
今朝の北海道新聞札幌市内版に載っていた記事です。
実直な人柄 惜しむ声
札幌市長を3期12年務めた桂信雄さんの死去に、生前親交があった同僚や市民からは実直な人柄を惜しむ声が相次いだ。札幌ドーム(豊平区)を多目的施設とすることで、プロ野球北海道日本ハムやサッカーワールドカップ(W杯)の誘致につなげ、札幌コンサートホールーキタラ(中央区)の整備にも尽力。市民の財産を将来に残した。(中村征太郎、平岡伸志、久保吉史)
ドーム、キタラ整備に尽力
札幌市役所10階の市長会議室の壁にずらりと並ぶ歴代市長の肖像画の中に、1枚だけ写真がある。桂さんだ。「『絶対に肖像画は作らない』と言われてね。金をかけるのも嫌だし、華美なものも嫌がったんです」。
退任前の1年間、市秘書課長を務めた秋元克広市長は当時をこう振り返る。「まじめで、職員を怒ることもめったになかった」
同時期の知事で、同じ行政マン出身の堀達也元知事(85)は「パフォーマンスが苦手ということで親しみを感じていたし、行政の先輩として尊敬していた」と語った。
桂さんの功績の一つが札幌ドームの開設だ。当初はサッカーW杯向けの施設だったが、「経営が成り立たない」と野球場など多目的施設に。結果として、サッカーやプロ野球だけでなく、コンサートやノルディックスキー世界選手権も行われるようになり、札幌ドームの名は世界に広がった。
キタラを中島公園に開設するよう強く求めたのも桂さんだ。当時、市の担当係長だった札幌振興公社の板垣昭彦社長(63)は「コンサート後、市民に中島公園を散策してもらい、余韻を味わってほしいと言っていた」と打ち明ける。札幌交響楽団(札響)の多賀登事務局長(57)は「世界に名だたるホールで札響の響きが確立された」と感謝した。
1997年には、豊平区の一部を分区して清田区を創設。地下鉄の清田延伸を要望する清田区の牧野晃さん(85)は「分区の結果、商業施設は充実し、豊かな自然の残る清田も残ったまま。子育て世代に選ばれる地域に発展した」と功績をしのんだ。
一方、任期中は、公用車の私的使用など職員の不祥事が相次ぎ、第三者の立場で行政を審査する「市オンブズマン制度」を道内市町村で初めて導入した。当時を知る市議らからは「芯を通す市長だった」との声も聞かれた。
桂市政の歩み
1991年4月 初当選
市立高等専門学校開校
11月 ミュンヘン大橋開通
1992年6月 第1回YOSAKOIソーラン祭り
1994年10月 地下鉄東豊線延長(豊水すすきの―福住)
1995年4月 再選
10月 市立病院移転新築
1996年3月 コンサドーレ札幌誕生
6月 サッカーワールドカップ(W杯)開催決定
1997年6月 つどーむオープン
7月 札幌コンサートホール・キタラオープン
11月 清田区誕生
1998年7月 モエレ沼公園一部オープン
1999年2月 地下鉄東西線延長(琴似-宮の沢)
4月 3選
7月 芸術の森整備完了
2001年3月 オンブズマン制度発足
6月 札幌ドームオープン
11月 市営バス民営化方針決定
2002年6月 サッカーW杯開催
7月 プロ野球日本ハム札幌移転決定
11月 引退表明
2003年3月 JRタワーオープン
4月 市営バス民営化スタート
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
札幌市にたくさんの財産を残してくださいました。
私は1995年10月の市立札幌病院移転新築の前に、
JA帯広厚生病院に移動しました。
札幌市民や札幌市職員にしたわれた市長さんでした。
今年のコロナ禍を心配していらしたと思います。
心からご冥福をお祈りしています。