昔の記憶
釧路労災病院手術室
私が釧路労災病院に勤務したのは、
医師になって2年目の秋と、
形成外科認定医(現在の専門医)を取得した直後の、
昭和61年(1986年)の2回でした。
2回目は私が31歳の頃です。
当時は、
卒後6年目で、
釧路労災病院形成外科のトップでした。
■ ■
認定医を取得しても、
正直なところ…
不安がいっぱいでした。
頼りにしていたのは、
北大から応援に来てくださる先輩でした。
吉田哲憲先生、
杉原平樹先生に、
何でも相談していました。
■ ■
私が赴任した当時の、
釧路労災病院は、
全国の労災病院でトップの、
黒字病院でした。
設備も、日本でトップクラスでした。
院長が新田一雄先生でした。
すばらしい院長先生でした。
■ ■
釧路労災病院手術室は立派でした。
清水婦長さんという、
とても優しい婦長さんが、
手術室の看護婦長でした。
手術室の看護師さんは、
とても優秀でした。
事故もありませんでした。
■ ■
私が勤務した病院の中で、
釧路労災病院手術室は、
看護師の平均年齢が一番若く、
一番早く一人前になっていました。
とにかく急患が次々とやって来ました。
もたもたしていると…
患者さんは死んでしまいます。
■ ■
夜間でも、
休日でも、
当番の看護師は必死でした。
卒業して半年もすると、
もう一人前に器械出し(きかいだし)ができました。
形成外科だけではなく、
脳神経外科も、
整形外科もこなしていました。
■ ■
若いからできた…?
必死で…
身体で覚えたのだと思います。
北海道の外科系医師で、
釧路労災病院で鍛えられた先生は、
たくさんいらっしゃいます。
私が信頼して、
今でもお願いする先生も多いです。
■ ■
私は、
30代前半の時期に、
釧路労災病院に勤務できたことを、
今でもよかったと感謝しています。
私が25年前に治療した、
1歳のお嬢さんも、
きっと優秀な看護師さんだと思います。
いつかお会いしてみたいです。
“釧路労災病院手術室”へのコメント
コメントをどうぞ
「身体で覚える」ってすごくわかります。
もちろん知識も必要なんですが、知識だけ豊富にあっても頭デッカチの看護師になってしまうんです。やっぱり身体で覚えて・・・そして経験として知識がついて来ると思います。
私は臨床を離れて1年が過ぎ、今でも現場に戻ったらできるのかな?と思うようになってくるほど時間がたってしまいました。
知識はつけれても(今からでも)私のように臨床を離れても体が覚えていてくれているのかな?と思います。
あ~~~ナースに戻りたいです(泣)
本間先生、先生が釧路労災病院にいらっしゃる時と同じ時期に同じ空の下にいたわけではありませんが、私も釧路労災病院に対する思い入れはかなりのものがあります。
とても釧路労災のたくさんの先生に助けて頂き、かつ、人生訓もたたき込まれました。
先生が青春時代を過ごされた釧路労災の手術室で修行したのなら、どこに行っても通用するよという発言には、嬉しさと懐かしさが交錯しました。いつの間にか先生のブログに感銘とシンパシーを感じていましたが、先生の誕生日と同じという偶然性と釧路という接点が、私の郷愁をかきたてます。一度お会いしてみたかったです。
雪印パーラーに行くふりをして、先生の病院を覗いてみたいです。
最近、ブログを読ませて頂いてます。私は24年前に釧路労災病院で親指の手術をして頂きました。手術は北大の杉原先生が釧路まで来て頂いてしてくれたと両親から聞きました。手術後は本間先生が主治医でした。当時は私も9歳で入院も心細かったですが母が汽車に乗って週に3回、日曜は家族で来てくれました。今自分も3歳の子の親なので当時入院したことや家族の暖かさなどを思い出すことがあります。
本間先生も、労災の看護師さんもとても優しかったことは覚えてます。ありがとうございました。
これからもブログ読ませて頂きたいと思います。
先生もお体には十分気をつけてお仕事頑張ってください。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございました。杉原平樹(つねき)先生は、北海道大学病院長、日本形成外科学会理事長を歴任されました。退職後もお元気で、今は札幌市内の老人施設にお勤めです。