昔の記憶
釧路労災病院の想い出①
私は釧路労災病院へ二度赴任しました。
一度目は、昭和56年(1981年)でした。
2年目の研修医の時です。
当時は3ヵ月単位で研修先が変わりました。
5人の新人研修医が…
なるべく機会均等に研修を受けられるように…
という医局の方針でした。
■ ■
当時の北大形成外科は、
まだ人数も少なく、
あたたかい家庭的雰囲気の医局でした。
2年目の研修医でも…
貴重な戦力でした。
実際には何もできなかったのですが、
それでも、傷の縫合とか、
外傷の処置は一人でしていました。
■ ■
赴任したのは10月でした。
新婚3ヵ月目で…
人生で一番♡しあわせ♡だった頃です。
北区新琴似の公団住宅には、
荷物をそのままにしておき…
最低限の荷物だけを…
カローラに満載して、
釧路へ出発しました。
■ ■
当時は高速道路もなく、
日勝峠も砂利道でした。
苫小牧まで行き、
日高経由で日勝峠を越えました。
道路工事のため、
いたるところで片側交互通行でした。
今から思えば時間がかかりました。
車も父親からいただいた車でした。
とても新車を買う余裕はありませんでした。
■ ■
今、想い出してみても…
喧嘩をした覚えもないし、
辛かった記憶もありません。
おそらく人生で最高にしあわせだった頃です。
10月の釧路は快晴の日が多く、
労災病院の窓からは、
雌阿寒岳がよく見えました。
住宅は古かったのですが、
2DKの公団住宅とは…
比べ物にならないくらい広く、
快適に生活をしました。
■ ■
労災病院は中園町というところにありました。
近くに、
石黒ホーマー(現、ホーマック)があり、
ちょっと離れたところには、
イトーヨーカドーがありました。
駅前には、
長崎屋と和商市場(わしょういちば)があり、
よく買い物に行きました。
■ ■
勤務は10月から12月までの3ヵ月間でした。
当時、はじまったTVが…
北の国からでした。
ビデオはありませんでしたので、
仲良く北の国からを見ていました。
秋から冬にかけて…
3ヵ月はあっという間でした。
阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、
厚岸、根室などに行きました。
もう二度と経験できない…
若き青春の日々です。
“釧路労災病院の想い出①”へのコメント
コメントをどうぞ
あらあら先生ごちそうさまです。
帯広は今日も暑くて、病院は混み混みで、クタクタになって帰って来て・・・
先生のラブラブの日記を読んでニンマリさせて頂きました。
先生にとって釧路は、良い思い出ばかりの土地なんですね。
帯広は明日も・・・暑いです。頑張ります。
私の昭和57年は長男が産まれて一年で 子育てで 大変な年でした。新米ママは 神経質になり 哺乳瓶のミルトン洗浄、あかちゃん用洗剤などなどすべてが赤ちゃん中心でした。
その息子も28歳ですから あっという間でしたね先生・・ 私は ずっと 両親と同居で 子供もすぐ産まれたのでLOVE×2からはほど遠く そんな想い出がある本間先生が羨ましいです。
新婚当時だったんですね(*^_^*)
青春時代の素敵な思い出ですね。
今は先生も開業したので、道内の病院に転勤があったのも今では経験できないいい思い出なわけですね。
北の国から・・・子供ながらに見てました。
懐かしい素敵な思い出ですね。