昔の記憶
濱本淳二先生の想い出②
濱本淳二先生はエッセイストです。
2009年8月に文藝春秋社から発行される、
日本エッセイスト・クラブ編
2009年版ベスト・エッセイに選ばれました。
先生がとても喜んでいらっしゃいました。
まみ子師長さんがご紹介してくださった、
カルテの独り言が私の手もとにあります。
そのあとがきに、
濱本淳二先生のお言葉があります。
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あとがき
もし何々だったらという思いが誰にもある。子供の頃から、もし病気をしなかったら、もし健康だったらという意識が、私にはずっと付きまとっていた。
遠足、運動会に参加できたのは小学校の二年生までで、その後は正規の体育の授業も惨めな思いで見学していた。決定的な闘病は高校二年、十七歳のときからで、長期間の療養生活をし、数回の苦しい大手術を受けた。
生活したというより、生存していたといいたい日々であった。戦中、戦後のきびしい社会環境、そして私の一家は満州から無一物での引揚者であった。私の命が辛うじて守られたのは、数年前に亡くなった父と、現在八十歳になる母の献身的な慈愛をはじめとした家族全員の愛情によってである。
大きなハンディを背負い、人より遅れて高校を卒業したとき、どの大学へ進んだら一人前の社会人になれるのか分からなかった。低肺機能者の私が何とか社会で生きていくためには、身体検査というふるいのない職業に進む必要があった。それで医学部を受けた。
私が医学を志したのは高邁な理想によるものではないし、ヒューマニズムに燃えていたからでもない。ただ医学部を卒業して医師になったとき、最低限、患者の心と目を持った医師であろうと決心した。
それから二十六年、医師としての生活が医師以前の生活とほとんど同じ長さになろうとしている。かって私か患者であった頃、唾棄した医師と同じ言動をしている自分に気づいて、ときどきはっとすることがある。そんな反省と自戒の思いを込めてエッセイを書きつづけてきた。
『北海道新聞』には偶然の機会で「カルテ余録」、「朝の食卓」、「カルテの余白」を連載し、『月刊ダン』には「カルテの独り言」を六年間も続けさせていただいた。私は北海道新聞によって種まかれ、この十年間、育てられてきたのである。主としてそこに書いたものでこの本はできている。
形成外科という臨床医学を媒介にして私を啓発してくださった多くの患者さん、先輩・同僚医師および看護婦さん、そしてすべての面で私を支えてくれた家族に心から感謝したい。
昭和六十三年六月
浜本淳二
カルテの独り言より引用
北海道新聞社
昭和63年6月25日発行
ISBN4-89363-502-6
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濱本先生からは、
文章の書き方を教えていただきました。
私が、こうして院長日記を書き続けられるのも…
濱本先生の教えのおかげです。
本間先生、このセンテンスは長すぎるから、
ここで、一度区切って、
『。(まる)』を入れて…
と教えていただきました。
■ ■
ご自分が、苦しい闘病生活を送られたので、
濱本先生は、
常に患者目線で
患者さんと接するように、
私たちに指導してくださいました。
下の本は、
私が濱本先生からいただいた署名入りの本です。
札幌美容形成外科に、一冊置いておきます。
興味がある方は、
是非お読みになってください。
こころに響くお言葉ですね。
病気になって人の気持ちがわかる・・・私もそんな人間で有りたいです。
早速濱本先生の本を読んでみようと思います。
北海道新聞を目にした事がないので 濱本先生が エッセイストである事を初めて知り、先生自身も 苦しい闘病のすえ 医師になられたから 患者目線で 診療できるのですね。どんなにすばらしい 医師であられたか、本間先生の日記を読めばわかります。お会いした事のない私でも・・。
13日は 山形の内陸地方では 盆の墓参りで提灯を下げて亡くなった先祖を迎えにいきます。庄内地方は7月13日でした。
若い時は考えませんでしたが 50歳を過ぎると あと何年生きられるか、自分はいったい どう生きてきたのか、とか考えるようになりますよね、先生・・・
亡くなって49日目に三途の川を渡り 生前の行いを鏡に写しだされ 天国から地獄まで何段階かにわけられると聞きました。 49日までは 亡くなった方の魂は家の回りにいるそうです。
私は寝る前に本を読む習慣があります。
今晩は浜本先生の本を読んで眠りにつこうと思います。