昔の記憶

札幌五輪から40年②【朝日新聞の記事】

 昨日の院長日記でご紹介した、
 朝日新聞の記事が、
 北海道版だったようで検索しても出てきませんでした。
 引用してご紹介いたします。
 平成24年2月4日、朝日新聞朝刊の記事です。
 白銀の祭典
 札幌五輪から40年②
 脚光浴びた聖火
 2人の高校生_かけがえのない体験
 札幌市西部にそびえる手稲山。五輪ではアルペンスキーなどの会場だった。そこで昨年末、小学1年生と保護者がスキーを楽しんだ。同市手稲区役所市民部が、初心者を対象に初めて催した「手稲山っていいね! 親子スキー教室」。3日間で約50組が参加した。
 「冬季五輪が開かれた札幌でもスキー人口が減って残念。地元に競技会場だった手稲山があるのだから活用しないともったいない」
 市民部長の高田英基さん(56)は、冬のスポーツの盛り上げに知恵を絞る。
 40年前の2月3日。
 高田さんは、札幌五輪の開会式が開かれた真駒内屋外競技場で、約5万4千人の大観衆の視線を一身に集めていた。聖火リレーの最終走者。当時は札幌旭丘高1年で、バレーボール部でアタッカーだった。トーチを掲げて103段の階段を駆け上り、観客席を振り返った時も、「あんまり緊張しなかった。そりゃ気持ちいいさあ……」。
 札幌では有名な高校生になった。だが、進学したのは道外の茨城大。「ほとんど誰も気づかなかった」。市役所に入ってからは国際畑が長く、国際部長を務め、前任はスポーツ部長。
 聖火リレー最終走者の経験は、人生にどう影響したのか。高田さんは「自分は普通でも、周りが変わった。顔と名前で思い出してくれる人もいるが、良く受け取る人と悪く受け取る人の両方がいる」。そして、「(昇進は)早すぎても、遅すぎてもいけない。早すぎれば、あのお陰と言われるし、遅すぎれば、そのくせになんだ、と言われるから」と笑った。
 高田さんにトーチを渡したのは、札幌北高1年だった玉井(旧姓・辻村)いずみさん(56)だ。今は、さいたま市立浦和高校で体育教諭を務めている。
 当時はフィギュアスケート選手で、すでに中学生の時に全道一だった。開会式では、聖火をスケート靴で滑って運び、脚光を浴びたが、競技では翌年の国体で14位。「実力はこの程度か」。やっかみの視線を浴びたこともあった。
 玉井さんも道外の筑波大に選んだ。1期生で、仲間から誘われてスケート部の創立メンバーに加わった。だが、「専攻が舞踊だったので、ダンスとスケートを掛け持ち。冬の間だけリンクに通う程度で、のんびりしたものでした」。
 玉井さんは、札幌五輪を「一生の中でかけがえのない体験」としながらも「あまりに周りから注目され、目立たないように行動していくようになったかも」と振り返る。勤務先の高校ではバドミントン部の顧問を務める。自らの経験から、生徒たちには「ここ一番でも『リラックス+程よい緊張』で力を発揮できるよう、試合の状況や生徒に合わせた言葉かけを心がけています」
(以上、朝日新聞より引用)
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 私たち50台の世代には…
 とてもなつかしい札幌オリンピックです。
 「虹と雪のバラード」という唄を想い出します
 虹の地平を 歩み出て
 影たちが近づく 手をとりあって
 町ができる 美しい町が
 あふれる旗 叫び そして唄
 ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
 あの星たちの あいだに
 眠っている 北の空に
 きみの名を呼ぶ オリンピックと
      ■         ■
 雪の炎に ゆらめいて
 影たちが飛び去る ナイフのように
 空がのこる まっ青な空が
 あれは夢? ちから? それとも恋
 ぼくらは書く いのちのかぎり
 いま太陽の 真下に
 生れかわる サッポロの地に
 きみの名を書く オリンピックと
 生れかわる サッポロの地に
 きみの名を書く オリンピックと
      ■         ■
 今の時代は苦しいけれど…
 函館の看護師さんがコメントしてくださったように…
 まだまだ未来は明るいと思っていたいです。
 あきらめたらスーパーマンも出てこないでしょ(笑)
 将来が不安なものかもしれないですが、
 今を必死に楽しんで生きていたいです♪
 今日も一日元気を出してがんばりましょう。
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 今日16:00にさくらんぼさんからメールをいただきました。
 手術が無事に終了したそうです。
 よかったです。
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札幌五輪の聖火台前で、当時のジャージーを手に思い出を語る高田英基さん
=札幌市南区
玉井いずみさん=さいたま市立浦和高

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