医学講座
上山博康先生のお言葉『常に患者のそば』
北海道新聞夕刊に連載されている、
私のなかの歴史を楽しみに読んでいます。
今は、旭川赤十字病院脳神経外科部長上山博康先生です。
神の手と呼ばれる名医です。
平成24年2月22日水曜日に掲載された記事が、
若い研修医の先生に参考になります。
ぜひ読んでいただきたいので、
ちょっと長いですが引用しました。
■ ■
人生を手術する「匠の手」-⑦
旭川赤十字病院脳神経外科部長
上山 博康(かみやま_ひろやす)さん
医 局
常に患者のそば、信頼得る
僕は高校2年生の16歳で脳神経外科医になると決めていたから、1973年9月に北大医学部を卒業すると、迷わず大学の脳神経外科の医局に入りました。当時の教授は、1965年に脳神経外科を開いた初代教授の都留(つる)美都雄先生(故人)でした。
当時は今の初期臨床研修のような国の制度はなく、医学部を出てすぐ大学の医局に入りました。そこで6年間、大学病院と外の病院を半年か1年交代で行き来しながら研修するのです。
同期は僕を含め5人。井須豊彦先生は釧路労災病院(釧路市)の脳神経外科部長、越前谷幸平先生は越前谷脳神経クリニック(小樽市)の院長、野村三起夫先生は渓和会江別病院(江別市)の副院長、岸原隆先生は岸原病院(青森県八戸市)の院長で、それぞれ活躍しています。
当時の北大の研修医制度は、医局に入ると一カ月約10万円が支給された。だが脳神経外科は「これでは暮らせない。そんないいかげんな制度は認めない」と反発。だから僕らは「自主研修医」で、研修期間の6年間は大学から一銭ももらえない。
そのため、研修医は皆、相棒をつくりましてね。1人が大学を出て外の病院で働き、もう1人が医局の中で大学病院の仕事をする。外で働く人が、給料の半分を、医局にいる人に送る、これを交互に繰り返す仕組みでした。とても苦しい生活でした。
大学に皆が寝泊まりする部屋がありました。「第4研究室」。名前は研究室ですが、2段ベツドがあり、僕らが暮らしている。長期合宿みたいなものですよ。当時人気の「ボンカレー」を食べ、風呂は手術場にあった施設で済ませた。僕にはとても楽しかった。部屋の主みたいでしたから。
大学病院にいる時は、朝から晩まで病棟に、患者のところへ行きました。医者の腕はまだない。力がなければ手数で勝負するしかないと思ったからです。
患者さんはね、「きょうの検査どうでした」と結果を聞いてくる。知っているから教えます。「おしっこ、きれいだったよ」。これで安心するんです。
先輩は「上山はいつも病棟にいるから」と、出先から患者の様子を電話で問い合わせてくる。下っ端だけど影の病棟医長のようでね。あるとき看護師が、入院患者たちに「受け持ちの先生はだれ」と聞いた。全員が「上山先生」と答えたんです。本当は先輩なんですけどね。
この時、患者の信頼を集める一つの方法が分かりました。「常に患者のそばにいる」。医学の話だけをすればいいのではない。テレビドラマなどたわいのない話題でもいい。患者は心細い思いで入院している。そばにいる、同じ空間にいるだけで、どれほど心強く思うのか、と。
僕みたいに、いつも病棟にいて全てオープンだと、患者は「少なくともこの人は、うそは言わない」と信頼を寄せてくれる。医者としての信頼はないかもしれないが、人間としての信頼なら得ることができたのです。
これは今の若い先生に最も足りないことかもしれない。早くから医者の目線やポーズをとりたがるが、それでは患者の信頼は得られません。医者として信頼される前に、人として信頼されなかったら無理なんですね。
「人間として信頼してもらえなければ、医者としても信頼してもらえない」。人間性で勝負する。僕は若い時、肌身で感じました。 (聞き手・岩本進)
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
上山先生は、
神の手と呼ばれる脳神経外科医。
TVにもよく出演されて…
とても有名な先生です。
北海道新聞夕刊の、
私のなかの歴史には、
幼少の頃からのエピソードも含め、
興味深い記事が掲載されています。
■ ■
何もできない研修医は、
とにかく患者さんのところへ行って…
おはなしを伺う
私も北大形成外科の研修医だった頃…
点滴も入らず患者さんに痛い思いをさせてしまいました。
4月から初期研修がはじまる先生、
この上山先生のお言葉『常に患者のそば』を覚えておいてください。