医学講座
白い恋人の石水勲さんご逝去
今日は2021年9月29日(水)です。
今朝の北海道新聞に悲しいお知らせが載っていました。
白い恋人をつくられた、
石屋製菓の石水勲さんがお亡くなりになりました。
とても残念で悲しいです。
心からご冥福をお祈りいたします。
私はニトリ講座で講義をお聞きしました。
情熱的な社長さんでした。
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2021年9月29日、北海道新聞朝刊の記事です。
石水勲さん死去 石屋製菓元社長 「白い恋人」コンサ創設主導
銘菓「白い恋人」で知られる石屋製菓(札幌)名誉会長の石水勲(いしみず・いさお)さんが9月26日午前4時30分、札幌市中央区の病院で死去した。77歳。病気療養中だったという。中国・大連市生まれ、札幌育ち。葬儀・告別式は近親者で行った。自宅は非公表。同社が後日、お別れの会を営む予定。
札幌工業高、東洋大経済学部を卒業し、祖父と父が駄菓子製造のため創業した石屋製菓に1967年入社した。その後、贈答品の菓子を主力とする路線に転換。1976年に発売した「白い恋人」を北海道を代表する銘菓に育て、1980年に社長に就任した。
1995年、札幌市西区の本社敷地内にチョコレートの博物館を併設した工場「イシヤチョコレートファクトリー」を開館し観光振興にも尽力。札幌商工会議所副会頭としてサマータイム導入も提案した。サッカーJリーグ1部北海道コンサドーレ札幌の創設を主導し、運営会社の副会長を経て会長を務めた。
2007年に賞味期限改ざんなど一連の不祥事の責任を取って社長を辞任したものの、新たな経営陣を支えてV字回復を達成。2011年に石屋製菓会長に就任して経営に復帰し、国内だけでなく、アジアを中心に海外でも愛される菓子ブランドを築き上げた。(生田憲)
北海道を菓子王国に 石水勲さん死去 社会貢献にも力
26日に亡くなった石屋製菓名誉会長の石水勲さんは「白い恋人」を育てただけでなく、サマータイム制導入を提唱するなど幅広く活躍した。2007年に発覚した賞味期限改ざんなど一連の不祥事で一時表舞台からは退いたものの、長男の創社長らを陰から支え、会社の再生を後押しした。
1976年に発売した白い恋人は、石水さんが自ら土産向きの日持ちする菓子を追求する中で考案。クッキーに当時流行していたホワイトチョコを組み合わせ、爆発的にヒットした。三重県・伊勢名物の菓子「赤福」を参考に、道外では原則売らない方針を長く貫き、国内だけでなく、中国や台湾など訪日観光客の間でも北海道土産の代表としての不動の地位を築いた。同業道内大手きのとや(札幌)の長沼昭夫会長(73)は「白い恋人があったから北海道が菓子王国と呼ばれるようになり、同業者の成長を促した。業界の兄貴分が逝ってしまった」と惜しんだ。
社会貢献にも力を注いだ。2004年に札幌商工会議所の副会頭に就任し、食と観光の振興を担当。平日の余暇を増やすサマータイム制は実現しなかったが、魚釣りやスキーなど多趣味で家庭を大切にする石水さんらしい提案だった。札商会頭だった高向巌名誉会頭(82)は「情熱あふれる素晴らしい経済人。惜しい盟友を失った」と悼んだ。
賞味期限改ざん問題では、会社に苦情電話が殺到する中、社長退任を決断。石水さんから経営を託された石屋製菓前社長の島田俊平さん(73)は「地位より会社を守ろうとすぐに決断したからこそ、石屋は再生できた」と振り返る。経営には一切口を出さなかったという。
石水創社長(39)は「北海道全体を盛り上げたいといつも考えていた。その思いを胸にこれからもお客さまの幸せにつながる仕事をやっていきたい」とコメントした。(麻植文佳、生田憲)
(以上、北海道新聞より引用)
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ニトリ講座で、
白い恋人の名前の由来をお聞きしました。
石屋製菓は、石水勲さんのお父さんが札幌市北区茨戸ばらと近くで、水飴みずあめを作るお菓子屋としてはじめたそうです。
終戦後の甘いものがなかった時代に、水飴はよく売れ、その後は駄菓子を製造し販売していたそうです。
一時期は駄菓子もよく売れたましたが、時代とともに売れなくなり、試行錯誤の上に石水社長が作られたのが、クッキーとホワイトチョコを挟んだ白い恋人でした。
苦労して作ったお菓子ができた時の喜びを講義でお聴きしました。
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フランスのグルノーブルで開かれた冬季オリンピックの記録映画の音楽が‘白い恋人たち’でした。フランシスレイという作曲家の映画音楽で、昔のスキー場ではよく流れていました。
白い恋人の発売前にヒットしていた北海道のお菓子に、当時の帯広千秋庵(現六花亭)が作ったホワイトチョコがありました。
帯広でしか買えないという希少価値と、フキノトウの包装紙に包まれた白いホワイトチョコが人気でした。
石水社長はこのホワイトチョコとクッキーのミックスを考え試行錯誤を続けたそうです。
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白い恋人のネーミングは、ちょうど初雪が降ってきた頃にお菓子が完成し、石水社長のお父さんが、『白い恋人たちが降ってきた』と言われたのがきっかけだと伺いました。
体育会系の石水勲社長が、お菓子を持って千歳空港の全日空カウンターへ行き『このお菓子を機内で配ってください』とお願いしたのが成功のはじまりだったというのが有名です。
この時に、全日空の担当者が会社を見せてくださいと言われ、工場の見学にいらしたそうです。
全日空から製品の衛生管理などに改善を求められ、これがきっかけとなって石屋製菓の体制が変わったと講義でお聴きしました。
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今でも講義をしっかり覚えています。
サーモンフィッシング
…のお話しも魅力的でした。
北海道に遡上する鮭はシロザケと呼ばれるサケです。
シロザケは遡上する際に餌を捕食しないので、しだいにやせ細ります。最後にはホッチャレと呼ばれる哀れな姿になり一生を終えます。
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サケ科の魚の中には、遡上しても餌を捕食してホッチャレにならない魚種があるそうです。
石水社長の構想では、キングサーモンの仲間を豊平川に放流して、観光端境期の10月~11月に、日本全国やアジア圏から大勢のサーモンフィッシングファンを呼ぼうというお話しでした。
生態系に与える影響など、問題はあるのでしょうが、この景気が悪い北海道に、何か新しい観光資源を開発するのはとても有意義だと思います。
このお話しは今でもいい考えだと思っています。
夢と情熱を持った社長さんでした。
77歳はまだお若いです。
心からご冥福をお祈りいたします。