昔の記憶
母親の葬儀④
私と弟は3歳違いです。
性格がまったく違います。
小さい頃から仲がよくありませんでした。
よく喧嘩をしていました。
バアさんが亡くなるまで、
あまり交流もありませんでした。
■ ■
バアさんの状態が悪くなって、
私と弟が協力するようになりました。
協力しないと、
とても看病などできません。
看病ではなく、
ただそばについているだけです。
お世話はすべて看護師さんがしてくださいました。
■ ■
私の米国形成外科学会参加は、
一年前から計画していました。
航空券もホテルも、
一年前から予約してお金も払っていました。
キャンセルしても返金はありません。
そこにバアさんの状態が悪くなりました。
私は弟に、
もし渡米中に急変したら来てくれるように頼みました。
弟も快諾してくれました。
■ ■
バアさんの状態はよくなかったものの、
学会中は問題ありませんでした。
学会最終日の午前中に急変しました。
帰国するまで生きていてほしいと祈るような気持ちでした。
帰国するまでがんばってくれました。
意識はほぼありませんでしたが、
私が帰国したことがわかったようでした。
■ ■
うちのバアさんは、
数年前から長生きしすぎたが口ぐせでした。
長生きするのも楽じゃないともよく言ってました。
今年になってからは、
早く逝かせてほしい、
ごくつぶしは生きていてもしょうがない、
…とも言っていました。
■ ■
最期の一週間、
私と弟が交代でバアさんのベッドの横で寝ました。
東札幌病院の緩和ケア病棟はとても静かです。
よく病院で聞くモニターの音がしません。
ナースコールの音もしません。
ナースコールは看護師さんの携帯マナーモードが、
ブルブルと振動するだけです。
亡くなる前日に弟がバアさんにお別れをして、
東京行の最終便に搭乗しました。
せっかく来てくれたのになぁ~という思いでした。
バアさんのおかげで弟と仲良くなれました。