医学講座

上田文雄さん死去_前札幌市長

 今日は2025年9月20日(土)です。
 昨日のYahoo!ニュースで上田文雄前札幌市長のご逝去を知りました。
 とても残念で悲しいです。
 今日の北海道新聞の記事と卓上四季です。
 心からご冥福をお祈りいたします。
 道新に連載された私のなかの歴史を思い出しています。
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 上田文雄さん死去 77歳 前札幌市長
 札幌市長を2003年から15年まで3期12年務めた上田文雄(うえだ・ふみお)さんが18日午後1時45分、膵臓(すいぞう)がんのため札幌市内の病院で死去した。77歳。十勝管内幕別町出身。市民が積極的に市政に参加する市民自治を提唱し、財政健全化を進めた。家庭ごみの収集有料化による廃棄物減量や、札幌駅前通地下歩行空間の整備、路面電車(市電)のループ(環状)運行などを実現させた。
 帯広三条高を経て中央大法学部卒。1978年に弁護士登録し、少年事件や医療事故訴訟を担当した。札幌弁護士会副会長も務め、市民運動にも取り組み、宗谷管内幌延町の高レベル放射性廃棄物貯蔵・研究施設誘致や北海道電力泊原発3号機(後志管内泊村)建設の反対運動に参加した。
 新人7人の争いとなった2003年の札幌市長選に立候補し、最多得票したものの法定得票数に届かず、政令指定都市初の再選挙で初当選。44年ぶりの民間出身市長となった。
 市長就任後も市民派を掲げ、理念を重視し、06年に市民の責務や権利、市長や議会の役割を明記した自治基本条例、08年には子どもの権利条例を制定。職員人件費の削減や出資団体の統廃合などの行財政改革で市債残高を大幅に圧縮した。26年の冬季五輪招致も表明した。
 政策決定過程では市民アンケートやワークショップを活用し、まちづくり活動を支援する「さぽーとほっと基金」も創設。一方、08年に下水道工事を巡る官製談合が発覚するなど市役所の不祥事も相次いだ。14年には札幌国際芸術祭を開催し、大型複合施設「さっぽろ創世スクエア」の整備も決定した。
 15年の市長選には出馬せず、当選した元副市長の秋元克広氏を後継候補として支援。その後も脱原発や護憲などの主張を続け、野党共闘を呼びかける市民団体「戦争させない市民の風・北海道」の共同代表も務めた。
 通夜は20日午後5時、葬儀は21日午前11時、いずれも札幌市中央区南7西8、東本願寺札幌別院で。喪主は妻めぐみさん。自宅は札幌市西区西野。(田島工幸)

卓上四季上田文雄さんの初心
 どんな時代に生まれるか、人は自分で選ぶことができない。けれども、その時代にどう生きるかを自らの意思で選ぶことはできる。訃報が伝わった上田文雄さんの人生が、それを証明しているように思う。
▼「団塊の世代」に属する。ベトナム反戦運動が燃えさかる大学時代。なにが自分にできるか考えたすえ、たった1人でデモを始めると、仲間が少しずつ増えた。市民の力を合わせ、ものごとを前に進める姿勢の原点となる。
▼人権と平和を守る仕事として弁護士を選び、立場が弱い人々へ救いの手を差しのべた。さまざまな社会課題に取り組むうち、図らずも札幌市長選へ。政令指定都市では史上初の再選挙を経て、44年ぶりの民間出身市長となる。行政経験はゼロ。「市民自治」を掲げ、六法全書を携えての出発だった。
▼財政健全化に取り組み、市民が市政に積極的に参画する流れを生む。多様性重視や反原発の方針を貫く一方、理念と現実の間でもがく場面も少なくなかった。ときに妥協しながら、なんとか前へと進んだ3期12年であった。
▼退任後も人権派弁護士として活躍した。だれもが自由に発言し、手を携える社会を実現する。その初心を忘れずに歩んだ人生は光を放つ。
▼音楽を深く愛した人だった。いまごろ、少年時代から大切にしていたトランペットを奏でているかもしれない。

(以上、北海道新聞より引用)

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 上田文雄市長が在職中に、
 市立札幌病院140年以上の歴史で、
 はじめて医師の病院長を病院事業管理者にしてくださいました。
 特別職と呼ばれる職種です。
 恩師、吉田哲憲先生が初代病院事業管理者です。
 それまでは担当副市長がいらっしゃいました。
 道新に書かれていた原発への思いも忘れられません。
 心からご冥福をお祈りいたします。

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