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チェリーの埋葬
チェリーの遺体を埋葬しました。早朝に私と息子、家内、私の両親、家内の母が‘参列’して行いました。
‘墓穴を掘る’という言葉があります。実際に掘ってみるとかなりの重労働です。殺人犯が屍体を埋めるというのは実に大変なことだと思いました。
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私は毎年花作りをしているので、この手の土木作業は得意です。今日は息子に手伝ってもらい穴を掘りました。
普通に球根を埋める程度に掘ると、もしスコップで耕した時に遺骨が出てきます。それより深く掘らなくてはいけません。今日は約1m掘りました。
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黒土が入っているのは約30㎝。そこから先は石がたくさん出てきます。石の混じった土をチェリーにかける訳にはいかないので、その土を篩(フルイ)にかけます。掘るのは息子の仕事、篩いは家内と私の父が担当しました。
額に汗して墓穴を掘るのは大変です。息子がフーフー言いながら‘まだ掘るの?’と訊いて(キイテ)きます。
‘まだまだ’と私。かなり掘ったところで私と交代。
息子‘まだ掘るの?’
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‘石でゴロゴロしたところにチェリーを埋めたら痛いだろう’
息子が掘ったところを、丁寧にまた掘って床をつくりました。
本当は死んでいるから痛いわけはないのですが、妙に納得されました。せっかく埋めるのでしたら、きれいに掘って、サラサラの土をかけてあげたいと思います。
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ようやく掘ったところで、チェリーに最後のお別れをしてお花と一緒に穴に埋めました。篩(フルイ)にかけたサラサラの土を少しずつ手でかけていって、しっぽの方から埋めました。最後はユリの花で顔を覆って、その上に土をかけました。
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私の家は近所の人のイヌの散歩コースにあります。私たちが墓穴を掘っている間にも、かわいいワンコがたくさん通りました。
家内が毎日朝と夜にオシッコをさせていた場所のすぐ横に埋めました。ラベンダーの中に入ると怒られるので、チェリーは駐車場の石の上でオシッコをしていました。
埋めている間にも元気だった頃のチェリーを想い出しました。
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人間が亡くなると、お通夜とお葬式をしてたくさんの人が集まります。故人を偲んで(シノンデ)想いをめぐらします。
私は宗教は特に信仰していません。両親もどちらかというと無宗教です。父方の祖父がクリスチャンだったので、本間家のお墓には十字架がついていますが、私は教会には行っていません。
私が死んだ時は‘コンピューターグラフィックで合成した私が、ビデオで会葬者にお礼を申し上げて、このHPに出しているビデオを上映して’と家族に話してあります。
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今日も皆様からお悔やみのメールをいただきました。
お悔やみをいただき、心から感謝しております。ペットとの別れは辛いですが、生きている間にたくさんの幸せをペットからもらうことができます。ペットとの生活を大切になさってください。本日はご会葬いただきありがとうございました。


チェリー最後の写真です。
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チェリーの棺
愛犬チェリーの棺(ヒツギ)を作りました。適当な箱を探しましたが、見つからなかったので自作しました。ネットで検索するとペット用棺も見つかりました。
私は解剖学教室で仕事をさせていただいたので、人間のお棺もたくさん見ました。大学で用意してある(葬儀社から購入する)お棺の他に、檜(ヒノキ)で立派な彫刻が施してあるお棺もありました。
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私が自作したチェリーの棺は、ダンボール箱に白い布を貼って作りました。棺の底にはビニールシートとペットシーツを敷いて、もし排泄物が出ても漏れないように工夫しました。人間を入れる棺にも防水加工をしてあります。
私は平成18年11月7日に書いたようにドナーカードを持っています。医師でドナーカードを持っている人は少ないようですが、私は組織すべてを提供するに○がついています。利用できるものは全部取ってください。脳死になったら全部あげますよ。と書いてあります。
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私が死んだら、皮膚も内臓も眼球もすべて差し上げます。どうせ火葬場で灰になってしまうので、利用できる状態でしたら何でも再利用してください!こんな私でもよかったら使ってください。というのが私の考えです。
皮膚を採取された部位が一番目立つと思います。顔や手など目立つ場所からは採皮しませんが、背中、お尻、下肢などからはすべて採取します。皮膚を上手に採取するのは意外と難しく、下手な先生がするとちぎれたり穴があいたりします。私の担当になった形成外科の先生はちょっと気の毒です。『こんな下手な取り方をして!』と化けて出そうですから。北大の後輩は嫌がるかもしれません。
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私のお棺はダンボールで結構です。檜(ヒノキ)の高級なお棺は要りません。どうせ燃やすのですから紙で構いません。それより死んでからも誰かの役に立って、誰かの体の一部として‘生きて’いたいと思っています。
できれば、私の体の一部でもキレイな女性の中で‘生きて’いたいというのがひそかな願いです。家内は『そんなこと言ったって無理ょ』と冷ややかに見ています。
形成外科医はあまり人の死に直面したり、死亡診断書を書いたりしません。私は市立札幌病院救命救急センターで多くの人の死を見ました。そこで私の死生観が変わりました。
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家内がチェリーのために、お花とメロンを買ってきました。ドライアイスも買ってきました。ラベンダーの生花はまだ入手できないので、ドライフラワーをお棺に入れてあります。
今日は仕事で時間がないので、水曜日の休診日に埋葬しようと思っています。
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動物は火葬する義務がないので、自分の敷地内のラベンダーの下に埋める予定です。毎年、ラベンダーの時期にチェリーを想い出せます。
お骨にして平岸霊園の墓地に埋葬しようかとも思いましたが、チェリーが毎日散歩してオシッコをしていた家の敷地内へ埋めようと考えました。
死んで土に帰るのが自然の摂理なように思えます。
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家族の一員として飼ってきたペットの死で、いろいろなことを考えました。
チェリーの最後の面倒は、私の両親と家内の母親がみてくれました。私の両親は苦しまないでポックリ死にたいといつも言っています。たとえ親の頼みでも安楽死させると医師免許停止になるのでできません。
私自身も楽に永遠にゆっくりと眠らせて欲しいと思っています。
チェリーも最後はオムツをしていました。私もオムツはしたくないと常々思っていますが、こればっかりはわかりません。
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皆様からお悔やみのメールをいただきました。
毎日つたない日記を読んでいただき、お悔やみまでいただき、心から感謝しております。ありがとうございました。
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チェリー天国へ
愛犬のチェリー今朝亡くなりました。平成4年3月16日生。15歳3ヵ月でした。苦しまずに眠ったまま呼吸が止まりました。直接死因:慢性腎不全。直接には死因に関係していないが、経過に影響を及ぼした病名:悪性リンパ腫。
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人が亡くなった時は死亡診断書を書きます。形成外科医は死亡診断書を書くことは少ないのですが、私も何十枚か書いています。
診断書の書き方は、法医学で習います。日本全国どこへ行っても同じ書式です。死因の種類や発病 (発症)から死亡までの期間、死亡した日時・場所などを記入します。記載を間違うと生命保険の支払金額に影響する場合があるので気をつけます。
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チェリーは6月16日(土)朝までは、エサを食べワンと言っていました。16日夕から急に状態が悪くなり、呼びかけても反応しなくなりました。
16日夕からは、水も飲まなくなりました。最後に尿が出たのが17日(日)の昼でした。人も動物も尿が出なくなると死期が近くなった証拠です。
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病院に入院していた患者様の容体が悪くなり、『ご家族を呼んでください』とか『会わせたい方を呼んでください』と言うことがあります。
事故や急病で亡くなる以外は、ある程度の経過があって亡くなります。この『危篤です』と申し上げるタイミングが難しいのです。
亡くなる30分前にお伝えすると、『間に合わない』方が出てきます。逆に3日前に伝えても『あと3日ですか?』ということになります。そもそもあと3日とか30分とか死期を正確に予測すること自体が極めて難しいのです。早く呼びすぎて『仕事の都合があるので、あとどの位でしょうか?』と聞かれたこともありました。死期を正確に予測できる先生はかなりの名医です。
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亡くなる直前は意識がなく、呼びかけても反応しないのが普通です。偶然、体を動かしたりすると、あっ何か動いた。と周りの人は思いますが、本人はわかっていません。
全身麻酔をかけてから、人によって手や足をバタバタ動かす方がいらっしゃいます。手術後に本人にお聞きしても、「まったく何も覚えていません」痛くありませんでしたと言われます。
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本人は意識がなくても、周りの人が見て苦しそうに見えることがあります。たとえば肺に合併症があって呼吸が苦しそうに見える時は、たとえ本人の意識がなくても周囲がかなり辛いものです。
ドクター・キリコではありませんが、死期の迫った人に薬や麻薬を上手に使って、本人も家族も苦しまない最期を迎えさせる技術は必要です。
‘安らかに死を迎える麻薬の使い方’なんて技術は、医学部では‘絶対に’教えません。もし教えたとすれば、マスコミに叩かれてひどい目にあいます。
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幸いチェリーは苦しんだりせず、眠るようにゆっくり呼吸が止まりました。
人間、誰しも苦しまず楽に最期を迎えたいと願っています。
私自身は安楽死が合法化されたら、真っ先にお願いします。楽に麻酔をかけられたように永遠にゆっくりと眠らせて欲しいと思います。
家族の一員として、私たちに安らぎと幸福を与えてくれたチェリーに感謝します。
ありがとうチェリー。安らかに眠ってください。
チェリーは、私の好きなラベンダーの下に葬ってやろうと考えています。
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チェリー危篤
愛犬のチェリーが危篤になりました。平成4年3月16日に北海道の紋別市で生まれたメスのシェルティです。平成4年5月に札幌市北区のホームセンター松崎という、今はもうなくなってしまったホームセンターで購入しました。ワンにゃんフェアーのチラシを見て家内と子供と見に行きました。
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そのころ流行っていた犬種はシベリアンハスキーでした。フェアーはホームセンターのレジ近くで、豊平区のフェニックスさんというお店が開いていました。シェルティは確か3匹いたと思います。その中で、一番人なつっこい犬がチェリーでした。
家内の『イヌの世話は誰がするの?お金もないしダメ』という一言で一度は諦めました。一日、その仔犬のことを考えながらボ~っと過ごし、嫌がる家内を何とか説得して夕方にもう一度イヌを見に行きました。もう売れてしまったかなぁ?と思っていたイヌは『売れ残って』いました。子どもの『お母さん、お金がないならボクたちおやつガマンするから買って!私もイヌのお世話をするから飼って!』という援護射撃もあって、私はそのイヌを買いました。
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家につれて帰ると、不安のためか?ガタガタ震えていました。その晩は私がイヌの傍に寝て様子を見ていました。一週間後、私が休日に北大で実験をしていると、『お父さん、チェリーが下痢をして止まらない』と家内から電話がありました。
ペットショップに指定されたドッグフードを与えていました。豊平区のフェニックスさんに連れて行き、大井動物病院を紹介していただき点滴をしました。最初はなかなか下痢が止まらず、もうダメか?と思いました。仔犬の時から点滴をしても吠えたり暴れたりせず、自分の子供(当時は小学生)よりよほどおとなしいイヌでした。(子供は注射や点滴が大嫌いでよく暴れていました) チェリーはガマン強いのか自分のためにしてくれる‘治療’だとわかっていたのでしょうか?自宅でも私が点滴をして治療し回復しました。その後は大きな病気もせず元気に過ごしました。
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私は昭和29年生れです。子どもの頃にテレビが普及しました。日曜日は朝の鉄腕アトムを楽しみにしていました。私が好きだったテレビ番組に『名犬ラッシー』がありました。テイミーという子供とラッシーを見て、私もティミーのように部屋でラッシーと暮らしたいと思っていました。
名犬ラッシーはミツワ石鹸が提供していました。番組の後で何回か「ラッシーの仔犬プレゼント」という懸賞をしていました。今から考えると、米国犬のラッシーの仔犬が日本で入手できる訳がないのですが、私はラッシーの仔犬が欲しくて何度も応募しました。
当時の少年雑誌(マガジンとかジャンプ)に浅草ケンネルという会社の広告がよく出ていました。そこではじめてシェルティーという犬種があるのを知りました。少年時代には犬の図鑑でコリーやシェルティをよく見ていました。
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私の子供の頃からの夢が、自分の家でシェルティかコリー、つまりラッシーを飼うことでした。
ホームセンターのワンにゃんフェアで買ったチェリーですが、実にかわいいワンコでした。シェルティは臆病なのでよく吠えると言われます。チェリーはあまり吠えませんでしたが、どういうわけか郵便屋さんが嫌いでした。散歩をしていても郵便屋さんには‘必ず’吠えていました。本当に申し訳ございません、といつも頭を下げて謝っていました。
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私の子供の頃からの‘夢’であったラッシーとの生活。ティミーとは違いましたが、チェリーがいて楽しい15年間でした。
飼うのを一番反対していた家内が結局一番世話をしました。子供は「ボクおやついらないから」と言っていたのに、散歩もウンチの世話もあまりしませんでした。
昨日からチェリーは何も食べなくなりました。大好きだった夕張メロンを奮発して買いましたが、口に入れても食べることができません。
平成18年10月22日(日)に胸にできた悪性リンパ腫を手術しました。今は数箇所に皮膚転移があります。10月に余命1~3ヵ月と言われました。それから8ヵ月です。よくがんばったものです。
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幸いチェリーは苦しんだりしていません。眠っているようにゆっくり呼吸をしています。
81歳になる私の父が、なんとかこのまま楽にしてやれないものか?と言いました。
苦しんでいるのでしたら安楽死も考えますが、このまま永遠にゆっくりと眠らせてやりたいと思います。
私の夢をかなえてくれ、家族の一員として、私たちに安らぎと幸福を与えてくれたチェリーに感謝します。
あと一週間生きてくれたら、私の好きなラベンダーが咲くのでラベンダーに包んで葬ることができますが、それは無理なようです。
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似鳥昭雄さん
今日の朝日新聞土曜版‘be on Saturday’にニトリの似鳥昭雄さん(63歳)が載っています。似鳥社長は、私が北海学園大学経営学部で聴講させていただいているニトリ寄附講座のスポンサーで講師でもあります。似鳥社長の講義は毎回立ち見がでるほど盛況でとても有意義です。私が尊敬する経営者です。
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朝日新聞の記事です。
話し好きだ。
「幼いころから、いつもニコニコしていました。いいことがある、とお袋に教えられて」
父はコンクリート業、母はヤミ米屋。小学生のころから米の配達を手伝ったり、親類がつくった漬物を売り歩いたりした。勉強は大嫌い。大学受験に失敗し、短大から4年制に編入した。熱中したのがアルバイト。体育会系の学生を雇い父の会社から基礎工事を請け負った。
「これがいい稼ぎになった。学生に払っても、手元には2、3人分の賃金が残る。学費はすべて自分で払いました」
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大学卒業後、就職した広告会社が肌に合わず、始めたのが家具店だった。まだ23歳。周りには競争相手もいないのに赤字の連続だった。1食15円の即席ラーメンで済ます生活が続き栄養失調に。見かねた母の勧めで8回目の見合いで結婚した。
「お袋が言いました『結婚すれば従業員を雇わなくても済む。一石二鳥。三鳥だよ』」
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1967年12月、100万円の元手で始めました。相手にしてくれる問屋を見つけるのにも苦労したほど前途多難な創業でした。黒字には月に最低70万円の売り上げが必要なのに、数ヵ月間は30万~40万円と悲惨な状況でした。
ところが、翌年、結婚した家内が商売がうまかった。お得意さんが次第に増え、1年後に年1千万円、次の年は2千万円の売り上げがありました。結婚3年後には2軒目の家具店をオープンしましたよ。
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1972年秋。「似鳥家具店」は大型家具店進出のあおりを受けて売り上げが大幅に減少、倒産の危機に立たされていた。その前年に借金して2軒目をオープンしたばかり。銀行はもう貸せないと言い出していた。
家具業界向けの米国・ロサンゼルス研修ツアーに参加したのは、そんな時期だった。
「このままいけば、来年春には確実に倒産する。逃げるか死ぬかしかないと思っていた。どうせつぶれるならと、ダメもとだった。あの時、米国に行かなかったら、すべて終わっていたかもしれない」
米国では、見るもの聞くもの何もかもが驚きだった。家具の安さだけでなく、家具がトータルコディネートされ、ファッション感覚に富んでいた。日本は半世紀は遅れていると感じた。
「本当に豊かな住まいを実現するため、家具のチェーンストアづくりを目指したい」
帰国して銀行の支店長に思いのたけをぶつけると、支店長決済をはるかに超える資金を貸してくれたという。
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毎年、500人以上の社員を米国に派遣し、研修を受けさせている。米国人の豊かな暮らしを実感し、経営スタイルを学んでもらうためだ。
「大切なのは常に課題を抱えることです。小魚の群れに巨大な魚が飛び込んだ場面を想像してください。危機から逃れるため動きが速くなる。それと同じです。社員も緊急を要する課題を抱えると、スピードを上げて乗り越えようとします」
子どもは大手印刷会社に勤める長男(37)とニトリ勤務の長女(28)がいる。
「息子は入社させません。後継者とみられて派閥ができるから。長女が社員と結婚したら?
夫には会社を辞めてもらいます。創業者に2代目は必要ありません」
いかにも似鳥社長らしいコメントです。ますますファンになりました。6月21日のニトリ講座が楽しみです^^
医学講座
手から毛が生える
手をヤケドした子供さんに鼠径部(ソケイブ、おへその外下方)から皮膚を移植しました。一見キレイに見えますが、皮膚の色調や質感が違います。
6月13日にも解説しましたが、皮膚移植には全層植皮(ゼンソウショクヒ)と分層植皮(ブンソウショクヒ)の2種類があります。厚い全層植皮が薄い分層植皮よりも、キレイで質感のよい状態になります。移植する部位と、なるべく同じ性質の皮膚を選ぶと目立たなく自然になります。ですから、指には足の裏から移植すると目立ちません。ただ足の裏から採取できる皮膚の大きさには制限がありますし、足の裏から皮膚を採取すると歩く時に痛くなります。
全層皮膚を採取した部位はキズができます。キズを縫い合わせるか、他の部位からまた植皮をします。つまり植皮のために皮膚を採取して、またそこに皮膚移植が必要になります。こんなにめんどくさいことをするのは、皮膚の色調や質感を合わせるためです。
全層皮膚を採ると採った部位は縫い合わせてキズをふさぎます。一番多く全層皮膚を採る場所が鼠径部です。皮膚が伸びやすいので、採っても周囲から皮膚を寄せて縫えるのです。どんなに丁寧に縫ってもキズが残るため、なるべく下着で隠せる範囲から採ります。この時に問題になるのが毛です。
鼠径部からは思春期になると毛が生えます。毛深い方ですと、女性でもおへそまで毛が生えます。移植しても皮膚は元の場所の性質を引き継ぎます。指に移植した鼠径部の皮膚からも、思春期に曲がった毛が生えることがあります。
年ごろの娘さんの指から曲がった毛が生えたら大変なので、形成外科医は赤ちゃんの指に皮膚移植をする時にも気を使います。私は女の子だったらお母さん。男の子だったらお父さんのお腹の毛を見ます。親が毛深い方は、赤ちゃんも将来毛深くなる可能性が高いので、指に移植する皮膚も毛が生えないと予測できる範囲から採取します。
下着で隠せる部位から採っても毛が生えたら困ります。毛が生えそうな人は下着からはみ出ても、毛のないところから採ります。もし指から曲がった毛が生えてきたら、レーザーで脱毛するとなくなります。
医学講座
皮膚色の違い
ブラックジャックは黒人の子供の皮膚を移植してもらったので、顔の色が違っていました。これはマンガの世界の話です。皮膚だけ移植しても、他人の皮膚は生着しないというのが現在の医学常識です。国家試験で問題が出てもこの通りです。
フランスや中国で行われた顔面移植は、マイクロサージャリーという顕微鏡を使った移植技術の進歩で成功しました。脳死になった人から、顔面の皮膚だけではなく筋肉や軟骨も移植したようです。
顕微鏡を使って血管吻合をすると、他人の顔面も技術的には移植できます。ただ一生免疫抑制剤という薬を飲み続けなくてはいけません。
臓器移植法の制限があるため、日本では顔面移植は行うことができません。日本で行うことができるのは、心停止後の皮膚移植だけです。スキンバンクから重症のヤケドの人に移植することだけが合法です。
ブラックジャックは黒人の子供の皮膚を移植してもらいましたが、現実には不可能です。自分の皮膚しか移植できません。
自分の皮膚でも部位によって色が違います。よくお尻の皮膚を使って移植するという話しを耳にします。息子も『指にはお尻から移植した』と思っていたそうです。
お尻から皮膚を採ることもありますが、通常は選択しません。一番多いのは大腿部(太もも)の外側です。皮膚が比較的厚く採取しやすいのと、採取後の管理がしやすいので選ばれます。お尻は、意外と目立つ場所で、採取後も軟膏ガーゼなどがずれやすく、座った時に当たって痛いなどの理由で第一選択にはしません。
太ももから採った皮膚も鼠径部から採った皮膚も、指に移植すると色の違いが目立ちます。指と同じ色の皮膚は足の裏です。土踏まずから指に皮膚を移植するとまったくわからない位になります。ただ、成長とともに縮むことがあります。そのため、赤ちゃんの指に移植する時は鼠径部の皮膚を選ぶことが多くなります。
形成外科医にとって一番の悩みは、大きくなった時に指の皮膚が黒くなることです。ブラックジャックの顔のように移植した皮膚が目立ちます。自分の皮膚なのに黒人の子供の皮膚を移植したようになることもあります。
医学講座
植皮術
昨日の日記を見て息子いわく、この手術はお父さんがしたの?そうだょ。ふ~ん。
子供の皮膚は他人からでもつくの?いいゃ。自分のじゃないとつかないょ。
ブラックジャックは黒人の子供の皮膚を移植してもらったから、顔の色がちがうでしょ?ウ~ん。あれはマンガだからさ。
昨日の日記でお見せした子供さんの指は、キレイに皮膚がついていました。実は、皮膚をキレイに移植するのは、かなり難しい手術です。どんなベテランの形成外科医でも、100%皮膚がつくとは保証できません。今、私が手術するとしても同じです。
医学が発達した21世紀でも、皮膚移植だけは別です。ヤケドした子供さんに、ご両親やおじいちゃんおばあちゃんから『先生、この子に私から皮膚をとって移植してください。』と言われることがあります。残念ですが、皮膚移植だけは腎臓や肝臓と異なり、身内でも生着しません。
唯一の例外が一卵性双生児(ふたご)です。それ以外は、移植しても約4週間で脱落してしまいます。スキンバンクという、死んだ人から皮膚を採って保存している組織が東京にあります。杏林大学救命救急センターの先生が中心になって積極的に活動をなさっています。スキンバンクから皮膚をいただいて移植したことがありますが、あくまで急性期に救命を目的として用いるだけです。最終的には自分の皮膚を少しずつ何回も手術して移植します。
自分の皮膚を移植するには、皮膚を薄く擦りむいたように採取する、分層植皮(ブンソウショクヒ)と皮膚を切り取って採った部分は縫ってしまう全層植皮(ゼンソウショクヒ)の2種類があります。
昨日の子供さんの指には、鼠径部(ソケイブ)といって、お腹と太ももの間の皮膚を移植しました。全層植皮です。皮膚を採った部分は縫いつめました。
昨日の写真ではキレイに治っているように見えますが、のちのち問題が出てきます。明日から少しずつ解説いたします。
医学講座
瘢痕拘縮
昨日の続きです。息子がどこをヤケドしていたの?と聞いてきました。指だヨ。お前も指が曲がらなくてよかったな。息子…???。この間の日記で、国民生活センターの写真を見なかった?息子…???。
PCで国民生活センターの写真を見た息子。指が曲がるんだ…。まだよくわかっていない様子なので、今日は写真付きで解説します。ここから先は気持ち悪い人がいるかも?しれないので、自信がない方は読まない(見ない)でください。
瘢痕拘縮はハンコンコウシュクと読みます。瘢痕(ハンコン)は簡単に言うとキズ痕のこと。拘縮とは引きつれて縮まっている状態です。ヤケドが深かったり、キズの治りが悪いと瘢痕治癒という状態になります。瘢痕というキズ痕が残ってキズがふさがります。通常でしたら、キズ痕が残るだけですが、手指・足趾や首などの可動部位では、キズが縮まる力が強いと曲がって固まってしまいます。これを瘢痕拘縮と呼びます。
形成外科の専門医試験は、瘢痕拘縮の手術ができないと受かりません。美容外科の手術で、下手な先生が下瞼の『たるみ取り手術』をする、アッカンベーになります。これも瘢痕拘縮です。形成外科医にとても大切な手術が瘢痕拘縮形成術です。
瘢痕拘縮を治すには、手指の場合は瘢痕をキレイに切除して、植皮をします。瘢痕をとると大きな欠損になります。そこに他部位から皮膚をとってきて移植するのです。
植物の苗を買ってきて移植しても、水やりが悪かったり移植後の管理が悪いと枯れます。皮膚も上手に移植することはもちろんですが、移植後に動かないように固定しないと生着しません。ベテランの形成外科医はこの固定が上手です。
皮膚の移植は植物の移植と同じ『移植』を用います。英語でも、transplantationと言います。plant(植物)をtrans(動かす)のです。
下の写真はスチーム式加湿器で指が曲がってしまった子供さんにした手術です。
こういう写真を見ると、加湿器や炊飯器で指が曲がってしまうなんて…シンジラレナイと思いませんか?
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加湿器による指のヤケド。指を切って皮膚を移植しました。
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親の責任
私の息子も炊飯器でヤケドをしました。今から20年以上前のことです。私は慎重なので、家のコンセントにも保護用のカバーをつけて子供がケガをしないようにしていました。
家内の実家に子供を連れて帰省しました。実家が関西だったので一年に一度くらいしか里帰りができませんでした。当時は今のように割引切符がなく、子供二人を連れて関西まで帰るとかなりの出費になりました。
里帰りすると家内の両親は大歓迎してくれ、いつも大阪(伊丹)空港まで迎えに来てくれました。当時、家内の父はJRを定年退職して、関連会社に勤務していました。会社近くのマンションに住んでいました。2LDKの広さだったと思います。
ふだんは家内の両親だけの世帯に、娘夫婦と子供が2人里帰りです。孫を囲んで楽しい時間でした。
私は学会のため実家を後にしました。家内の実家で子供と両親が楽しく過ごしていました。事故はその時に起こりました。
息子(本人は覚えていないと思います)は床に置いてあった炊飯器の湯気に手をかざして、指にヤケドをしました。
私に報告すると叱られるので、すぐに言わなかったようです。夜に電話すると息子がヤケドをして、なんとアロエ軟膏を塗っているというではありませんか?私は烈火のごとく怒り(すぐに怒ります)、なんでちゃんと気をつけていなかったのだぁ~~~!!!と電話で延々と怒っていました。携帯電話がなかったので公衆電話からです。
ちゃんと形成外科の先生に診てもらうように指示し、大阪の住友病院形成外科を受診しました。幸い、息子のヤケドは軽く今見てもどこをヤケドしたかわかりません。
ヤケドや事故は予想もしない時に起こります。家内も両親もまさか炊飯器がそんなに怖いとは知らなかったようです。私の怒りは、家内の父の『健人くん(ケント息子の名前です)に悪いことしてしもうた。すまんかったなぁ~』という一言でおさまりました。
小さな子供のヤケドは親の責任です。大きくなってからは子供が何をしてもわかりませんが、小さなお子様にはくれぐれも気をつけてあげてください。