昔の記憶
父親から聞いた戦争の話し
今日は2021年8月24日(火)です。
昨日の院長日記、
堂徳房子先生(93)大夕張の小学校で代用教員で、
父親から聞いた戦争の話しを思い出しました。
母親からは戦争の話しは聞いた覚えがありません。
今度、機会があれば聞いてみます。
■ ■
私の父親、本間寛ほんまゆたかは、
2016年3月29日(火)に90歳で亡くなりました。
5年前だったんだと思い出しました。
父親は小学校の頃から成績がよくなく、
優等生だった姉とくらべられて、
劣等感にあふれていたそうです。
■ ■
優等生の同級生は、
札幌一中さっぽろいっちゅう、現在の札幌南高校、
札幌二中さっぽろにちゅう、現在の札幌西高校、
…という中学校(現在の高校)に進学したそうです。
あまりできがよくなかったゆたか少年は、
札幌工業高校の木材工芸科に進学しました。
父親が卒業の時に製作した家具が、
私が子供の頃に家にありました。
■ ■
父親は1926年(大正15年)生まれです。
徴兵制度ちょうへいせいどがあり、
赤紙が来て戦争に行かされた世代です。
戦争に行きたくなかったゆたか少年は、
徴兵免除ちょうへいめんじょという制度を利用して、
戦争で死なない方法を選びました。
さすが本間家の人たちです。
■ ■
徴兵免除になるには、
医学部や薬学部に進学する方法がありました。
優秀だった父親の同級生には、
北大医学部に進学した人もいました。
医学部は無理だった父親は、
仙台の東北薬学専門学校に進学しました。
札幌工業高校から薬学専門学校に進学した人は、
父親以外にはいなかったようです。
父の姉が薬剤師だったことも影響したかも?です。
■ ■
私の父親は5人姉弟の2番目です。
姉(他界):薬剤師
父(他界):薬剤師
妹(他界):養護教諭
弟:医師
妹:音楽教師
一番下の妹以外は医療関係です。
■ ■
裕福な家庭ではなかったのに、
私の父親が薬剤師になったのは、
戦争があったからだと思っています。
もし徴兵制度がなければ、
ゆたか少年は家具職人になっていました。
仙台の薬学専門学校時代には、
空襲にあって山に避難したことも聞きました。
本間家と戦争の歴史の一部です。
私は戦争は大嫌いです。
“父親から聞いた戦争の話し”へのコメント
コメントをどうぞ
父も母も8人きょうだいなので誰が何をしていたのか書ききれません。
父は次男で体が小さく、病弱で兵隊検査で落ちて戦争に行かなかったと聞きました。恥だと思ったそうです。
本間先生のお父様はすごいと思います。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。さくらんぼさんのお父様はご立派です。小さな体で果樹園を開拓なさったのは素晴らしいです。誰もが戦争で死にたくなかったのが本音だと(私は)思います。
お父様は薬剤師になった経緯が分かりました。
叔父様がやはりお医者様なのですね。
私の叔父は戦争に行きましたが
戦争が終わり無事帰ってきました。
でも戦争に行ってる間に
母親(私の祖母)が病死したそうです。
帰ってきたら母親が他界してたなんて事実は
辛すぎます。
戦争は本当に嫌です。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。私の親の世代は戦争に行った人と行かなかった人がいます。亡くなった母方の祖母は、夫が沖電気の社員で満洲に単身赴任中に病死しました。病死なので軍人恩給ももらえず苦労したそうです。それでも戦時中と戦後に一人で5人の子供を育てました。よくやったなぁ~と思います。
祖母の同級生がトイレの
窓から顔を出して戦闘機の射撃によって
亡くなった話しなども聞きました。
先生のお父さまは戦争によって
人生が違っていたのかもしれないの
ですね。皆さん医療関係なのは
勉学を大切にするご家庭だったの
でしょう。さすが本間先生のご親族
だと思いました。
弱いものから犠牲になる戦争は
絶対にしないでほしいです。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。私の父親は戦争に行きたくなかったから、戦争で死にたくなかったから仙台の薬学専門学校に行ったそうです。戦争が無ければ家具職人だったかも?です。仙台で空襲にあった話しも聞きました。戦争は大嫌いです。