昔の記憶
車の想い出
私も若い頃は、
車が欲しい…
とか、
どこかへ行ってみたい…
とか、
そんな夢がありました。
学生時代には、
父親の古い車を借りて、
楽しんで乗っていました。
■ ■
当時の本間家は、
超ビンボーだったので、
とても新車を買う余裕はありませんでした。
私は公立大学で、
授業料は一ヶ月分が3,000円でした。
それでも予備校1年間+大学6年間は、
お金がかかったと思います。
私の弟は、
芝浦工業大学という、
東京の私大に行きました。
仕送りが大変でした。
■ ■
父親も車が欲しかったと思います。
夕張、札幌の二重生活で…
とても車を買う余裕はありませんでした。
母親は生命保険の外交員をしていました。
オイルショックの前でしたが、
車はまだまだぜいたく品でした。
そんな本間家に…
はじめての車がやってきました。
私が浪人中で…
弟は高校生でした。
父は夕張の炭鉱病院で…
単身で薬剤師として働いていました。
■ ■
父が勤務していたのは、
三菱南大夕張炭鉱の、
炭鉱病院でした。
病院へは、
札幌から製薬会社のMRさん、
(医薬品情報を提供してくださる社員さん)
がいらしてました。
ある製薬メーカーのMRさんが、
廃車になるという車を
安く譲ってくださることになりました。
■ ■
白いコロナでした。
トヨタの車です。
走行距離は10万キロを越えていました。
それでも…
しっかり整備されていたので、
十分に走りました。
当時走っていたタクシーと同じ型でした。
父も私も喜んで…
その車を大切に乗りました。
札5
さ・417
というナンバーでした。
■ ■
タイヤを買うお金がなかったので、
中古のスパイクタイヤを買いました。
雪が多い時には…
タイヤチェーンを巻きました。
日曜日に…
父親が夕張へ帰る時…
あまりにもすごい雪で…
雪に埋まったら心配なので…
予備校生の私が乗って行ったこともありました。
■ ■
後輪駆動だったので、
とにかくよくスリップしました。
四輪駆動の乗用車など…
夢のまた夢でした。
シートベルトは2点式。
頭部を保護する枕すら…
オプションの時代でした。
ラジオはAMのみ。
スピーカーは1個でした。
そんな車を一番よく磨きました。
今は車があっても…
乗る時間がなくなりました。