昔の記憶
母親の職歴
昨日の院長日記、
不動産鑑定士にお会いしましたに、
さくらんぼさんからコメントをいただきました。
保険の仕事はお聞きした事がありましたが、
不動産鑑定士でのコピーとりの仕事が役にたちましたね。
そうなんです、
日本でも有名な不動産鑑定士の先生が、
開口一番に、
お久しぶりです。
お母さんお元気ですか?
と言っていただきました。
ありがたいお言葉です。
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私の母親は、
40歳を過ぎてから、
家計を助けるために、
働いていました。
今から考えると、
私と弟の教育費が大変だったと思います。
本間家は先祖代々の資産があるような、
裕福な家庭ではありません。
サラリーマンの薬剤師でした。
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私の学生時代
2008年6月11日の院長日記です。
私は1970年4月から札幌に住んでいます。
その年に、札幌西高校へ入学しました。
当時は大学区制で入学定員の3%程度までは、
北海道のどこからでも札幌の高校へ進学できました。
一番難しかったのが、
札幌南高校、
昔は札幌一中(いっちゅう)と呼ばれていました。
その次が、
札幌北高校、昔の庁立高等女学校です。
札幌西高校は、おおよそ3番目でした。
昔の札幌二中(にちゅう)でした。
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私の父方の祖母が住んでいた、
琴似八軒(後の西区八軒)から、
一番通いやすかったのも選んだ理由の一つです。
西高は自由な雰囲気が売りでした。
自分の学力と相談して、
札幌南は無理でした。
無理のないところが札幌西でした。
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大夕張に父親を一人残して、
母親、私、弟の3人が札幌へ来ました。
今から思えば、父親には悪いことをしました。
父親は、月に1~2回、
バスで札幌へ来ました。
自家用車もありませんでした。
バスの運賃が、片道1,080円程度だったと記憶してます。
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お金がないので、
母親は、八軒にあった森永製菓の工場へ、
パートで働きに出ました。
エンゼルパイというお菓子を作っていました。
たまに、できそこないで廃棄処分にされるお菓子を、
こっそり持って帰ってくれて、
それを食べるのが楽しみでした。
ところが、
不況で森永製菓の工場をリストラされました。
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母親の職歴は、
森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
生命保険の外交員→
財形貯蓄の勧誘員という、
仕事をしながら、生活費を稼いでくれました。
その後で働いたのが、
公益社団法人北海道不動産鑑定士協会でした。
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そこは、
将来年金をもらえるように、
…と言って働いていたように記憶しています。
私たち息子2人が独立してからも、
鑑定協会で働いていました。
そこでたくさんの人脈を築きました。
88歳になった今でも、
ネットで株価を見ながら、
株取引をしているのは、
その当時に教えていただいたからです。
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定年があったかどうかわかりませんが、
60歳頃まで鑑定協会で働いていました。
そのおかげで、
厚生年金がもらえるようになったと喜んでいました。
父親が亡くなって、
お一人様になりましたが、
食べて行ける分くらいはあるようです。
マンションで、
私の院長日記を読んでいると思います。