昔の記憶

永六輔さんご逝去

 平成28年7月12日(火)、北海道新聞朝刊の卓上四季です。
 大往生
 作曲家の中村八大さんに長男が生まれた時である。息子に「はじめまして、父親です」と神妙にあいさつする親友を見て、永六輔さんは歌詞を思いつく。「はじめまして、私がパパだ」。
▼ところが、放送する段になって、ディレクターから「ママにしてくれ」と指示される。「こんにちは赤ちゃん」の曲名で梓(あずさ)みちよさんが歌い、ヒットしたのはご存じだろう。
▼日常のささいな出来事から発想を膨らませ、作詞し、ラジオ番組を構成する。観察眼が鋭いだけに、曲がったことが許せなかったようだ。
▼計量法の制定で、かね尺を使うと警察に摘発されるとの話を聞いた。これでは指物師が失業する。俳優の小沢昭一さんらと、尺貫法復権を唱える演劇を各地で上演する。作戦は功を奏し、尺貫の使用も黙認されるようになったという。
▼晩年、 パーキンソン病 やがんを患ったが、早口で世相を一刺しする話術は衰えなかった。ラジオ番組では憲法を度々取り上げた。<憲法を守るのは国民ではなく、本来は大臣や国会議員、官僚なのに、守っていない>。折しも、 参院選 で改憲勢力が3分の2を占めたのをどう思ったろう。
▼永さんが83歳で旅立った。生前、著書「大往生」で自らの弔辞を書いていた。<三途(さんず)の川に流され、あの世にもこの世にもいないというのが、永さんらしい大往生だ>。どこかにいて、面白い話題を振る。そんな姿がまぶたに浮かぶ。2016・7・12
(以上、北海道新聞より引用)

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 永六輔さんのご冥福をお祈りいたします。
 北海道新聞にも、
 朝日新聞にも、
 永六輔さんの記事が載っています。
 私はTBSラジオ「永六輔の誰かとどこかで」をよく聴いていました。
 北海道ではHBCラジオで放送していました。
 偉大な方だったと残念に思います。
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 今朝の道新を読むまで、
 こんにちは赤ちゃんの、
 わたしがママょが、
 最初は、
 私がパパとは知りませんでした。
 いい歌です。
 日常のささいな出来事から発想を膨らませ作詞は、
 すごいことです。
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 平成28年7月12日(火)、朝日新聞朝刊の天声人語です。
 永六輔さんの大往生
 「大晩年」「大往生」「二度目の大往生」「終 大往生その後」。人生の終え方について話題作を次々世に出したタレントで作家の永六輔さんが亡くなった。83歳だった。
▼その晩年はパーキンソン病との闘いだった。転んで足首をねんざし、肩を脱臼した。ズボンをはこうとしてバランスを崩し、大腿(だいたい)骨も折った。自らを「パーキンソンのキーパーソン」と笑った。
▼学校に上がる前から病院暮らしが長かった。おなかがポコンとふくれ体は針金のよう。ラジウム放射線治療を受けたが、なかなか治らない。それが空襲を避けて信州小諸へ疎開したらすっかり健康に。子どもながら医学不信に陥った。
▼若いころから放送作家や作詞家としてヒットを連発する一方、政治に対する挫折感を抱えていた。「上を向いて歩こう」は、安保条約改定に反対する運動の敗北感から生まれた。連日出かけた国会前のデモが蹴散らされ、無力感に沈んだ。50歳の夏、参院選に挑み、あえなく落選した。
▼「テレビの言葉には本音が少ない」と、自由に遊べるラジオの仕事を愛した。女優が気象データとは縁のない架空の天気予報を読み、外国出張から帰れなくなった永さんを追悼するウソの番組を流した。憲法を2時間読み続けたこともある。
▼彼の名を冠したラジオ番組は、亡くなる前の週まで続いた。権力におもねらず、市井の人々に寄り添う姿勢は終生変わらなかった。いまごろは天国のスタジオで自らの晩年や往生を笑いを交えて語っているだろうか。
(以上、朝日新聞より引用)

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 上を向いて歩こう」は、
 安保条約改定に反対する運動の敗北感から生まれた。

 これも知りませんでした。
 今でも坂本九さんの歌声が聞こえてくるようです
 いい歌です。
 敗北感から生まれたとは、
 考えたこともありませんでした。
 永六輔さんのご冥福をお祈りしています。
 たくさんのいい歌と番組をありがとうございました。

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