医学講座
原爆乙女と形成外科
今日は2023年5月24日(水)です。
札幌は晴れのいいお天気です。
ゼレンスキー大統領の広島訪問で、
原爆と形成外科のことについて、
ぜひ知っていただきたいことがあります。
原爆乙女と呼ばれた患者さんたちです。
菅原康志先生のページに記載があります。
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おそらく医師を含めた多くの日本人にとって、形成外科の存在が広く知られることになったのは、1955年にHiroshima maiden と呼ばれた若い女性被爆者の治療が、アメリカ政府の計らい(Peace-Center Foundation)によりマウントサイナイ病院で行われことに始まるだろう。
その際、治療にあたった A.J. Barsky 教授は、翌1956年に来日し「広島原爆乙女の治療を中心としたPlastic surgery」という講演を、東大医学会で行っている。
当時は、整形外科、皮膚科、耳鼻咽喉科といった診療科内で、形成外科的診療を行っていた一部の医師が、それぞれが持つネットワークを通じて情報交換を行っていたが、そうした機運が熟した1960年に、最初の独立した形成外科診療科が東京大学に設立されている。
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形成外科という言葉がなかった昭和20年代に、
Hiroshima maidenと呼ばれた若い女性被爆者が、
米国で治療を受けました。
この方たちが原爆乙女なのです。
ニューヨークのマウントサイナイ病院で手術をしてくださったのが、
形成外科のA.J. Barskyアーサー・バースキー 教授です。
原爆乙女の治療でPlastic surgeryが知られるようになりました。
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私くらいの年代の形成外科医だと、
一度は聞いたことがあると思いますが、
おそらく今の若い先生たちはご存知ないと思います。
長崎大学形成外科の初代教授、
難波雄哉先生は1958年、日米交換研究員として渡米し、
当時Plastic Surgeryの世界的権威であったBarsky教授の下で、
ニューヨークの Mt.Sinai病院でPlastic Surgeryの研修を受けました。
これは日本人として最初の形成外科研修のための留学でした。
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昭和大学形成外科の初代教授
鬼塚卓彌先生は1956年東大医学部を卒業、
整形外科大学院修了時に 三木教授の指名で、
原爆乙女治療基金の留学生として
当時米国形成外科の最高峰であった
ニューヨークMt.Sinai病院のDr.Barsky教授のもとに留学し
形成外科の最先端技術を習得しました。
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日本の形成外科が発展した背景には、
多くの日本人が米国で研修させていただいた歴史があります。
広島の原爆は悲しいですが、
その治療で日本の形成外科が発展しました。
68歳の形成外科医として、
若い先生に語り継いで行きたいと思います。
明日から第49回日本熱傷学会が東京で開催されます。