昔の記憶

1964東京オリンピックの思い出

 今日は2021年7月25日(日)です。
 TOKYO2020が開催されています
 鉄棒の内村航平選手(32)が、
 まさかの落下でした。
 本人はどんなにつらいことでしょうか、
 スポーツの世界でも何が起こるかわかりません。
      ■         ■
 私は1954年生まれです。
 1964年の東京オリンピックの時には10歳でした。
 当時は父親の転勤で、
 美唄市茶志内びばいしちゃしないに住んでいました。
 日東美唄小学校にっとうびばいしょうがっこう4年生でした
 担任の先生は村木由松先生でした。
 小学校に視聴覚教室というのがあり、
 そこのTVで東京オリンピックを見せてもらいました。
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 当時は札幌の手稲山からTVの電波を出していました。
 美唄市に到達する頃の電波は弱く、
 映像はザラザラで、
 音声もよくありませんでした。
 もちろんブラウン管式の白黒テレビです。
 家にもテレビはありましたが、
 今のようにビデオはありませんでした。
      ■         ■
 けんいち少年が感動したのは、
 東京オリンピックの記録映画でした。
 炭鉱の街にあった、
 会館と呼ばれていた映画館に小学校で行き、
 東京オリンピックのカラーの記録映画を見ました。
 東京はなんてすごいところなのだろうと思いました。
 57年後にTOKYO2020が開催されるなんて、
 夢にも思いませんでした。
 無事に終わることを願っています。

“1964東京オリンピックの思い出”へのコメント

  1. えりー より:

    そうでした!56年前にも
    東京オリンピックが開催されていたの
    ですね。カラーの記録映画を見て感動
    なさった少年時代。子供の頃に強く
    印象に残ったことは大人になっても
    鮮明に記憶していることがあります。
    内村航平選手、今は耐え難いお気持ち
    かもしれませんが、あきらめないで
    前向きに考えてほしいと思いました。
    そして今回のオリンピックが
    無事に終わることを自分も願っています。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。昭和世代には東京オリンピックが大きなできごとでした。私は小学校4年生でした。炭鉱の町、美唄市の茶志内ちゃしないに住んでいました。日本は高度成長期で東海道新幹線が開通しました。TOKYO2020がコロナでこんなことになるとは夢にも思っていませんでした。日本人の力で無事に終わらせたいと願っています。

  2. さくらんぼ より:

    先生の記憶力には脱帽です。
    私は担任の先生とかクラスメートの名前もよく覚えてません。
    柔道やスケートボードストリート部門で金は凄いです。私はばーちゃんが家のりんごを買ってくれていた平野歩夢君をひそかに応援しています。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。TOKYO2020には反対の人もたくさんいますが、日の丸が掲揚されて君が代が流れると、がんばれニッポンって思います。選手たちのことを考えると開催してよかったと思います。コロナの感染が拡大せず、無事に終わってほしいです。

  3. なっちゅん より:

    1972年札幌オリンピックが
    オリンピックの初めての記憶です。

    アイスホッケーを月寒体育館に
    両親と見に行きました。

    フィギュアが見たかった私は
    少し残念でした。

    でも今から考えると
    父が頑張って確保してくれた
    アイスホッケーだったのかもしれません。

    オリンピック選手村で使われたロッカーを
    安く手に入れ
    家には暫くありました。

    ジャネットリン選手のサイン入りが
    欲しかったですが到底無理でした。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。1972年の札幌オリンピックの時には高校2年生でした。叔父が苦労して手に入れてくれた切符で入場式に行きました。当時はしっかり御礼が言えたかどうかわかりませんが、今になって叔父夫婦に感謝しています。なっちゅんさんのお父様も苦労して切符を入手されたと思います。私の記憶ではJTBで販売していたと思います。TOKYO2020は無観客でも選手ががんばっていて、ニッポンはすごいと思っています。

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