昔の記憶
ソフトクリームの思い出
63歳になりましたに、
私の同級生、
すみれさんから、
♡お祝いのメッセージ♡をいただきました。
感慨深いものがあります。
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すみれさんは、
札幌西高校でアイドルような存在でした。
目立つ美少女でした。
西高祭という学校祭で主演をなさり、
私たちの3年7組が優勝しました。
脚本を書いた男子生徒は、
その後、北海道放送に勤務しました。
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私は青白い顔をした、
不健康そうな男子でした。
いつも風邪をひいていました。
熱を出して学校を休んだこともよくありました。
一浪して受けた自治医大の面接で、
きみは高校をよく欠席しているが、
そんなに身体が弱くて僻地の医師になれるのか?
…と面接官から質問されたくらいでした。
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私たち札幌西高校23期は、
1970年4月(昭和45年4月)入学
1973年3月(昭和48年3月)卒業です。
私は夕張市の山奥、
大夕張の鹿島中学校から、
札幌西高校に入学しました。
札幌の高校に入学したものの、
山奥から出てきたけんいち少年は、
勉強ができませんでした。
英語のテストは赤点でした。
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当時の札幌西高校は一学年450人でした。
45人のクラスが10組ありました。
おおよそ男子300人、女子150人程度で、
圧倒的に女子が少ない学校でした。
北海道の高校ランキングでは、
①札幌南
②札幌北
③札幌西
…という順位でした。
自由な校風が特徴でした。
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大学受験で札幌医大を志望したものの、
現役の時は全敗でした。
3月上旬に試験があった、
旧1期校→札幌医大→不合格
3月下旬に試験があった、
旧2期校→弘前大学医学部→不合格
開学が遅れ10月に試験があった、
新設校→旭川医科大学→不合格
私は失意のどん底で札幌予備学院医進コースで勉強していました。
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予備校に入って驚きました。
私よりずっと偏差値が高い人が、
予備校の模試で成績上位者だった人が、
同じ札幌予備学院の医進コースに何人もいました。
自分は落ちて当然だと自覚しました。
模試の成績は上がったものの、
来年合格できるという保証はありません。
毎日、勉強だけしていました。
もちろん♡彼女♡なんていません。
夢のまた夢でした。
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街に出ることもめったにありませんでした。
たまに本屋さんに参考書を買いに行く程度でした。
そのくらい勉強しないと、
私のように偏差値が65くらいの少年は、
国公立の医学部に入るのは無理でした。
札幌医大は、
全国の国公立大学医学部の中では、
一番入りやすいランクでした。
それでも難しかったのです。
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模試の成績もぱっとせず、
あぁ、また来年も予備校かぁ~?
…と思いながら歩いていると、
あら、本間くん!
…と声をかけてくれた女性がいました。
なんと、
札幌西高校のマドンナだった、
すみれさんでした。
高校生の時よりずっときれいになっていました。
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大丈夫ょ、来年は絶対合格できるって!
私、本間くんにソフトクリームごちそうしてあげる。
とってもおいしいの。
どこでお会いしたのか?覚えていません。
おそらく札幌の大通り公園あたりだったと思います。
私はすみれさんに、
札幌千秋庵のソフトクリームをごちそうしていただきました。
人生で一番美味しかったソフトクリームです。
すみれさんのおかげで、
私は翌年、晴れて札幌医大に合格できました。
このことをメールでお伝えすると、
そんなことあったかしら?
すみれさんはもちろん記憶になかったようです。
私の青春時代の数少ない楽しい思い出です。