昔の記憶
お盆に祖母の人生を考える
今日は2025年8月14日(木)です。
お盆にお墓参りに行かない代わりに、
祖母の思い出を書いてみます。
大好きなおばあちゃんでした。
祖母は屯田兵の子孫でした。
旧姓は横田キヨです。
■ ■
札幌市北区茨戸ばらとに住んでいました。
横田の本家は立派だったけど、
うちは分家だったから、、、
(そんなに裕福ではなかった)
…と聞いたことがありました。
分家の実家は弟が継いで農家をしていました。
夫が亡くなって札幌に戻ってから助けてもらいました。
■ ■
32歳の時に沖電気の社員だった夫が、
単身赴任先の旧満州の奉天で病死しました。
夫が亡くなった時に一番下の子がお腹にいました。
祖母は夫の転勤で東京に住んでいました。
夫が亡くなっても、
自分は身重だったので満州には行けず、
中学生だった長男が遺骨を引き取りに行きました。
■ ■
沖電気から退職金をもらったものの、、、
東京から5人の子供を連れて札幌に戻ってきました。
札幌市中央区北1条西10丁目に借家を借りて住みました。
そこから私の母親は大通小学校に通いました。
今は札幌地方裁判所・札幌高等裁判所の建物がある場所です。
生活費は和裁の仕立てで稼ぎました。
食べ物は茨戸の弟からもらったと聞きました。
■ ■
夫婦2人でも5人の子供を育てるのは大変なのに、
上が中学生、下は乳飲み子の子供を連れて、
どうやって東京から引っ越してきて、
どうやって生活していたのだろう?
…と70歳になった私は思っています。
すぐ近くに市立札幌病院がありました。
女手一つで働いて子育てをした明治の人でした。
■ ■
どうやって学資を稼いだのかわかりません。
長男は札幌一中→北大工学部に進学し卒業しました。
私の母親は2番目でした。
大通小学校から庁立札幌高等女学校に進学しました。
母親も上の学校に行きたかったようですが、
下に弟が3人もいたので、
当時の北海道農業会、今のJA北海道厚生連に就職しました。
そこで薬剤師の父親と知り合ったそうです。
■ ■
私は祖母から『一人で子育てをして大変だった』とか、
『夫が死んでしまって大変な人生だった』とか、
そんなことは一度も聞いたことがありませんでした。
私の母親はよく『お父さんが生きていたら』
…と言ってました。
きっと上の学校に行きたかったのだと思います。
祖母は夫が亡くなったことをこぼすこともなく、
いつも笑顔のやさしいばあちゃんでした。
きっとつらいことがたくさんあったと思います。
すごい明治の女性です。