医学講座
北の国からの思い出
今日は2021年4月4日(日)です。
田中邦衛さんご逝去88歳で、
追悼番組を昨夜やっていました。
私は’92巣立ちで、
純くんが交際相手を妊娠させてしまった時、
お父さんの五郎さんが上京して謝りに行ったのを覚えています。
■ ■
当時は市立札幌病院に勤務していました。
望まれない妊娠が、
今ほど問題になっていなかったように感じます。
デキ婚というストーリーではなく、
妊娠は継続されませんでした。
番組はとても印象的でよく覚えています。
■ ■
北の国から’95秘密では、
東京から富良野に帰ってきた純くんが、
ゴミ収集車に乗って、
環境問題を考えていたこともありました。
昨夜の追悼番組を見て、
また北の国からを見てみたくなりました。
昔の記憶
田中邦衛さんご逝去88歳
今日は2021年4月3日(土)です。
昨日のYahoo!ニュースで、
田中邦衛たなかくにえさんが2021年3月24日午前11時24分に老衰で死去していたことを知りました。
Yahoo!ニュースの記事です。
田中邦衛さんの長女が勤めるNHKが死去第一報
フジテレビ系ドラマ「北の国から」シリーズなどで知られる俳優の田中邦衛(たなか・くにえ、本名同じ)さんが3月24日午前11時24分に老衰で死去していたことが分かった。88歳だった。「若大将」「網走番外地」シリーズなど、多くの映画で名バイプレーヤーとして活躍し、素朴な味わいのある演技で独特の存在感を発揮。「北の国から」で国民的な人気を博した。2010年の映画「最後の忠臣蔵」出演を最後に第一線からは遠ざかっていた。葬儀は既に家族葬の形で行われ、お別れ会などの予定はないという。
田中さんの死去はこの日午後5時59分、NHKが最初に報じた。田中さんの長女・淳子さん(56)は同局職員で、2006年に同局初の女性海外支局長としてシドニー支局長に就任。2013年2月からワシントン支局長を務め、2016年にはBS1「国際報道2016」のキャスターに。昨年4月から広報局長を務めており、1日に行われた定例の会長会見にも出席。悲しみをおくびにも出さず進行役を務めていた。
(以上、Yahoo!ニュース、スポーツ報知より引用)
■ ■
立派なお嬢様がいらっしゃることを知りませんでした。
北の国からがはじまったのは、
私が結婚した1981年でした。
今から考えると、
人生で一番しあわせだった時期です。
二人で仲良く北の国からを見ていました。
■ ■
仕事熱心な看護婦長さんが
『今日は楽しみにしているテレビがあるから10時までには帰りたい』
…と言っていたのを覚えています。
私もずっと北の国からのファンです。
岐阜県のご出身とは思えないほど、
北海道弁がお上手でした。
心からご冥福をお祈りしています。
いいドラマをありがとうございました。
(フジテレビより引用)
医学講座
4プラ解体、足りぬ移転先
今日は2021年4月2日(金)です。
昨日の4プラ来年1月末に営業終了し解体
…の続きです。
今朝の北海道新聞の記事です。
テナントさんは困っているようです。
4プラ再開発見えぬまま 来年1月閉館 札幌・大通地区、足りぬ移転先
札幌・大通地区の商業ビル「4丁目プラザ」(4プラ、中央区南1西4)の来年1月末での営業終了が決まり、コロナ禍による売り上げ減に悩むテナントは売り場まで失う事態に見舞われる。老朽ビルが多い同地区は再開発計画が相次いでいるが、4プラは近隣施設との一体開発構想が実現せず、計画が具体化しないまま、耐震不足で閉館発表となった。地下街にも直結した好立地で若者らに親しまれた約70のテナントは移転先探しを余儀なくされている。
「街の中心部で雪や雨に当たらずに来てもらえる好条件の場所はほとんどない」。4プラでエステを経営するフレアー(札幌)の玉川晋太郎代表取締役は、運営会社から数日前に閉館を知らされ頭を抱える。市内に計3店舗を構える同社にとって4プラ店は売り上げの要だ。顧客と従業員の雇用を守るため移転先を探し始めたが、「札幌駅側に行くと賃料が高くなる」(玉川氏)と困惑を隠さない。
カプセル入り玩具の自動販売機「ガチャガチャ」の専門店を出店するトーシン(帯広)の担当者は、3月31日にファクスで閉館を知り驚いたという。「コロナ禍で客足が見通せない。近隣へ新たに出店するのはリスクが高い」(同社)。今後は全くの白紙だ。
運営会社4丁目プラザ(札幌)の広川雄一社長は記者会見で、解体方針は耐震診断後の2018年ごろ固め、隣接する商業施設「ピヴォ」(南2西4)を含めた一体開発を模索したことを明かした。だが「それぞれの事情があってタイミングが合わず」(広川氏)、ピヴォは道外のビル賃貸大手と組んで隣接地も含めて複合ビル化する方向に。4プラは単独開発にかじを切ることになった。
周辺はピヴォだけでなく、サンデパートビル(南2西3)やイケウチゲート(南1西2)など商業施設の建て替え計画が動きだし、将来的にはテナント獲得競争が激しくなりそうだ。
一方、相次ぐ再開発で一時的に商業施設が減り、同地区からテナントが離れるという見方も出てきた。4プラと同地区の別の1店舗で古着店を経営するSHARE(シェア、札幌)の佐藤直人代表社員は「移転先の選択肢は(札幌駅前通を挟んだ)パルコしかないが、パルコも(既存テナントで)パンパンだ。ビルの集客力に頼らず、郊外に広い店舗を構えることを検討している」と話す。
市民の間では惜しむ声が広がる。4プラで買い物をしていた札幌市清田区の高校生谷口未弥さん(15)は「ニュースで知ってびっくりした。いつも行く店がこれからどうなるか心配」。ビル内の100円ショップを利用するという同市中央区の伊藤千賀子さん(69)は「大通は札幌の中心部。跡地にどんな建物ができたとしても活気が維持されてほしい」と話した。(生田憲、芝垣なの香、村上辰徳)
来年1月末に営業を終える4丁目プラザ(中央)。パルコ(左下)などと大通地区中心部の一角に位置し、若者文化の発信地として親しまれた=1日、札幌市中央区(中川明紀撮影)
■ ■
北海道新聞、札幌市内版の記事です。
4プラ、若者魅了し50年 2022年1月閉館 「寂しい」「憧れの地」 入居店舗から惜しむ声
札幌市中央区の商業ビル「4丁目プラザ」(南1西4)が老朽化などのため、来年1月末で閉館することが1日発表された。ビル内で長年営業を続けてきた店舗経営者は「若者文化の発信地だった」と、半世紀にわたり札幌のランドマークとして親しまれた「4プラ」の思い出などを振り返った。
同ビル建設前に同じ場所にあった喫茶店の流れをくむ喫茶店「コーヒープラザ西林」は1971年の同ビル開業時から地下2階で営業し、客や札幌の移り変わりを見届けてきた。同ビル運営会社の社長も務める同店の運営会社「にしりん」の広川雄一社長(76)は「地域のランドマークである4プラで店をやってきたことを誇りに思う」と話す。
地下街ポールタウンとビルが直結しているため、店には若者のほか幅広い世代が集い、「携帯電話の普及前は待ち合わせ場所としてもよく使ってもらった」。
一等地にありながら、客が「使いやすい店でありたい」と薄利多売をモットーに、700~800円台のコーヒー付ランチなどを提供してきた。
開店当初はウエートレスとして働き、その後、数十年来の常連となった人、転勤で札幌を離れたがまた戻って店に通ってくれる人。そんな客の姿に励まされてきた。「50年の節目で閉館せざるを得ない寂しさはあるが、人々をつなぐ役割は果たせたと思う」
7階の商業スペース「自由市場」は1坪から出店でき、海外直輸入のアクセサリーや古着、雑貨など多彩な店を育んできた。
2004年に古着店「ペギーズブティック」を開店し、現在は市内で6店の古着店を営む荒川健さん(40)は「僕自身も育てられた場所」と惜しむ。市内の服飾専門学校を卒業。市内の別施設で古着屋を開いていた24歳のころ、4プラの営業部に声をかけられ、自由市場に出店した。「憧れの地で、まさか店を出せると思わなかった」
古着が好きで、元々は客として自由市場に通った。地元オーナーによる個性的な店が1区画ごとにひしめく「かわいい、奇麗というだけでなく、怪しいマニアックさを兼ね備えた場所だった」と振り返る。
荒川さんは定期的に欧州で古着を買い付けながら事業を拡大し、2014年には会社化も果たした。「涙あり笑いありの自由市場の日々でモノを売ることを学んだ」と話す。今後は近場に移転するつもりだ。
同ビルが加盟する札幌四番街商店街振興組合の戸沢真副理事長(62)は「4プラのおかげで、かいわいに若い世代が集まった。地場の人たちが立ち上げた施設という意味でも地域の誇り」と語り、新たな魅力ある施設に生まれ変わることを期待する。(加藤祐輔、岩崎志帆)
「西林」の店内で店のあゆみなどを振り返る広川雄一社長(大石祐希撮影)
「百年もの」の古着やアンティークグッズが数多く並ぶ店内に立つ荒川健さん(金本綾子撮影)
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
立ち退きを経験した私にとって、
移転先がないのはひとごとではありません。
各テナントさんで条件は違うと思います。
いい移転先が見つかることを祈っています。
私は移転先がなくて困りました。
不本意でしたが先輩の目の前に移転してしまいました。
北大形成外科同門会を辞めました。
私は運命だとあきらめています。
4プラのテナントさんが移転できることを願っています。
医学講座
4プラ来年1月末に営業終了し解体
今日は2021年4月1日です。
今日から新年度です。
価格表示が消費税込に義務付けられました。
札幌美容形成外科はもともと消費税込です。
開業以来値上げしていません。
ニトリさんのように値下げは無理ですが、
コロナでもがんばっています。
■ ■
今朝の北海道新聞を見て驚きました。
すぐ近くの四プラが取り壊しです。
札幌「4プラ」来年1月末に営業終了 老朽化で解体へ 開業半世紀 跡地利用は未定
札幌・大通地区の商業ビル「4丁目プラザ」(中央区南1西4)が来年1月末で営業を終了することが決まった。1971年9月の開業以降、最先端の流行を取り入れた衣料品店を集め、近隣の札幌パルコと並ぶ若者文化の発信地だったが、建物が老朽化し、耐震不足と診断されていた。来春にも建物を取り壊す。跡地利用は検討中で、新たな商業ビルへの建て替えを軸に具体的な計画を詰める。
運営会社の4丁目プラザ(札幌)によると、31日までにテナント全68店に営業終了を通知した。建物は地上9階地下3階で、店舗面積は約7900平方メートル。「4プラ」の愛称で親しまれ、90年代前半のピーク時は年125億円を売り上げたが、2003年のJRタワー開業後は札幌駅周辺に客を奪われるなどして減少傾向が続き、新型コロナウイルス禍に見舞われた2020年度は約40億円だった。
また、2017年には大型施設に義務づけられた耐震診断で、震度6強から7程度の地震で倒壊や崩落の危険性が高いとされた。広川雄一社長は「耐震工事も検討したが費用と時間がかかり、解体して建て替えることにした」と話す。同ビルの敷地は約1500平方メートルで、地権者などの関係者は運営会社を含めて複数いるが、現時点で第三者への売却や周辺商業地との共同開発は検討していないという。
大通地区では、北陸銀行札幌支店(大通西2)や商業施設「イケウチゲート」(南1西2)などでも近く新棟の着工が始まる見込み。1972年の札幌五輪前後に建設されたビルが続々と更新時期を迎えており、2030年の北海道新幹線札幌延伸を見据えた再開発の動きが広がりそうだ。(伊藤正倫)
来年1月末に営業を終了する「4丁目プラザ」
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
驚きました。
四プラさんは同じ町内会です。
四プラの廣川雄一社長は ごまそば八雲の社長さんです。
移転してから、
町内会の会合でお会いしていました。
まさか老朽化で解体とは思っていませんでした。
2020年は四プラさんもコロナ禍で一時期休業していました。
■ ■
1971年9月は私が17歳になった年です。
札幌西高校の2年生でした。
四プラには維新堂いしんどうという本屋さんが入っていました。
パルコのところには冨貴堂ふうきどうという本屋さんがありました。
けんいち少年は参考書を買いに、
よく本屋さんに行ってました。
四プラさんが無くなるのはとても残念です。
医学講座
ペルテス病だった私の経験①
今日は2021年3月31日(水)です。
ペルテス病だった聖火ランナー
…の続きです。
私のペルテス病は後遺障害もなく治りました。
鉄人28号
2007年12月2日の院長日記に書いてあります。
■ ■
私が発病したのは5歳でした。
手稲町立手稲西幼稚園に通っていました。
病気になった私が幼稚園へどうやって通ったのか忘れましたが、幼稚園の遠足では、神社の階段を園長先生が、私をおんぶして上がってくれました。
コルセットをつけて、外でも遊んでいたような気がします。
子供は驚くほど適応力があるので、私が手術した子供たちも、ギプスをつけながら器用に遊んでいたことを想い出します。
こうして、私は約一年間コルセットをつけて幼稚園へ通園しました。
■ ■
整形外科のおかげで、私の骨は変形することもなく成長できました。
札幌医大に入学してから、整形外科の臨床実習がありました。
実習担当の先生に『僕は昔ペルテスで整形外科のお世話になりました』と話しました。
■ ■
『今は何ともないの?』と聞かれました。
私は、母親から歩き方が変だと言われたことはありますが、特に問題なく、スキーもできますと答えました。
じゃぁ、念のためレントゲンを撮ってみようということになり、私は20年ぶりくらいで股関節のレントゲンを撮りました。
■ ■
レントゲンを読影してくださった先生は、『本間君、ペルテスだったのは右か?左か?どっちだった?』と言われました。
私は今回、日記を書くために古い写真を見て、左とわかりましたが、学生の時はどちらだかはっきりわかりませんでした。
『おそらく左だったと思います』
先生は、『イゃ~、こりゃ、どっちかわかんないほどよく治っているゎ』と仰ってくださいました。
■ ■
私は今でも、歩き方が少し変です。
でも、別に股関節に痛みもありませんし、歩行も水泳もできます。
手稲でペルテスが見つかり、北大から愛育病院へ紹介され、しっかり治していただいたことに感謝しています。
■ ■
ペルテス病になったことで、
幼少期のけんいち少年はいろいろ考えたようです。
ベッドの上で排泄を経験したことで、
くさいに敏感です
おやじくさい
加齢臭
うさんくさい
いんちきくさい
…にならないように66歳でも気をつけています。
■ ■
5歳で入院した記憶は、
66歳でも覚えています。
5歳の時には、
将来お医者さんになるなんて考えてもみませんでした。
今から考えると、
神さまはいい経験をさせてくださったと思います。
残された人生は、
少しでも患者さんの役に立ちたいと思っています。
医学講座
ペルテス病だった聖火ランナー
今日は2021年3月30日(火)です。
3月の診療は今日で終わりです。
昨日の院長日記今日から自転車通勤2021に書いた、
私と同じペルテス病だった、
大阪府の唐治谷耕大さん(15歳)のことが気になり、
オリンピック聖火ランナーHPで調べてみました。
■ ■
Runner’s Story
唐治谷耕大さん(15歳)大阪府
オリンピック聖火ランナーの知らせは、お母さんからサプライズで知らされました。ちょうどその頃あった中学の懇談会の時、お母さんが日本生命からのはがきを見せてくれて。「これ、すごいことやでー」って先生も喜んでくれて。教室からでたら夢みたいで、勝手に涙が出てきました。
初めて病院に行った時のことはまだ5歳で。はっきりとは覚えてないんですが、いろんなエピソードを後から教えてもらいました。お母さんがその日「この子はこれから絶対歩いてはダメ」って言われて、頭が真っ白になってしまったこと。そして背の高いお兄ちゃんに電話して「ごめん、迎えに来ておんぶして」って頼んでくれたこと。帰ってきてからお母さんは、僕たち兄弟3人に病院で言われたことを泣きながら伝えたそうです。お兄ちゃんたちは病気を理解するというよりは、「お母さん、えらいことなっとる」って。それからずっと支えてくれた。
僕がかかったのは「ペルテス病」という診断が難しい病気で。先生がたまたま研究していたから「この子はひざが痛いって言っているけど、違うよ、股関節が壊死する病気だよ」ってすぐに教えてもらえて。まだ体が小さかったから、股関節に圧力をかけずに自然治療っていう形がとれました。でもその代わり、長く車いすに乗らないといけないっていう。
それからはお母さんがずっと車いすを押して、幼稚園に送り迎えしてくれました。そのあと通った小学校は先生たちがとてもやさしくて。できることは全部バックアップするよって言ってくれて。いろんなことに参加させてくれた。校庭や図書室にいくときも、運動会も、おんぶしてくれて。玉入れの時は、先生がおんぶして、僕が投げて、下に落ちているボールは友達が渡してくれた。そう、友達もそんな感じだったんです。鬼ごっこも車いすを押してくれて。足について何も言うことないし、特別扱いっていうわけでもなかった。言葉とかないけど、みんな行動でやさしくしてくれた。中学になった今でも友達です。
だから辛かった記憶はないんですが、たくさんの人にずっと助けられてきた記憶があるので、これからどうやってその恩を返すかっていう感じです。幼稚園の教室が2階にあったときは、お母さんが毎日一人で階段を担いでくれた。お父さんも僕を抱きあげて、よくファミレスに連れて行ってくれたし、入院してたときも、カードゲームで遊んだり、一緒に寝てくれて。ずっとそばにいてくれたんです。
こういう病気があったから走れることも当たり前とは思ってなくて。走ることが、大好きです。お兄ちゃんが走るのも、ずっとみていて。だから陸上部に入りました。そうですね、走りたいって思いがどこかで爆発したのかもしれません。それこそ、鬼ごっこをやってくれた小学校からの友達も陸上部で。チームですけど、お互いに競いあって、励ましあって、どんどん記録も伸びています。
お母さんはいつも笑顔で、僕の前であまり悲しい姿を見せません。でも、今回の聖火リレー応募を通じて話を聞いて、あ、そんなに心配してくれてたんや、とわかった。あらためて、そのありがたさに気づきました。家族にも、友達にも、ありがとうですね。もうそれしかないです。将来は、リハビリする理学療法士になりたいと思っています。僕のリハビリの先生もやさしくて、ずっと助けてくれました。ゲームを一緒にしてくれたり、話を聞いてくれた。リハビリを楽しい時間に変えてくれたんです。
今、同じ病気を乗り越えようとしてる子たちには、もうそこで歩けないといって、あきらめたらだめだよって伝えたい。今をどんどん楽しんで、友達と仲良くやっていったら、いつかまた歩けたり、走れたり、みんなで遊んだり、そういうときが来るから、そこまで頑張る、頑張っていこう。そう伝えたいです。
■ ■
いいお話しだと思います。
私も5歳で発病しました。
私は走るのが苦手です。
唐治谷耕大さんは、
将来、理学療法士さんになりたいそうです。
私が子供だった時代には、
理学療法士さんのリハビリはありませんでした。
がんばって勉強していただきたいです。
きっと優しい理学療法士さんになると思います。
医学講座
今日から自転車通勤2021
今日は2021年3月29日(月)です。
今日はおやじの命日です。
本間家は無宗教なので、
何も行事はありません。
うちのばあさんも何もしないと思います。
命日なのでじいさんのことを思い出しています。
亡くなってから5年です。
■ ■
私は今日から自転車通勤をはじめました。
昨年は2020年3月30日(月)から、
一昨年は2019年4月8日(月)からでした。
66歳になっても、
元気で自転車通勤ができて、
元気で働けることに感謝しています。
■ ■
TVのCMで、
あなたと同じペルテス病だった子が、
オリンピックの聖火ランナーになったのをやっていると、
うちの奥さんから教えてもらいました。
自分と同じです。
私は車椅子は使わず、
おんぶされていました。
ペルテスだったのに66歳でも元気に働けることに感謝しています。
高い装具を買ってくれた両親にも感謝しています。
左下肢に装具をつけています
66歳でも元気です
医学講座
Love & Profit(愛と利益)
今日は2021年3月28日(日)です。
昨日の院長日記、
杉田敏先生への感謝
ネットで見つけた杉田先生のお言葉に、
Love & Profit 愛と利益がありました。
いい言葉だと思います。
■ ■
私は極小企業の医療法人札幌美容形成外科の経営者です。
私のようなへんくつながんこ医者と働いてくれる従業員に感謝しています。
開業以来気をつけていることは、
先生と働いて貧乏になった
…と言われないようにしてることです。
どんなに理想の医療をしても、
従業員の生活を保障できなくては、
経営者として失格です。
■ ■
私はケチな男です。
死ぬまで同じだと思います。
経営者として守っていることです。
まず従業員のお給料を払う、
家賃を払う、
薬や品物の購入代金を払う、
自分のお給料は一番最後です。
■ ■
昼ごはんも同じです。
私の昼ご飯は一番最後です。
従業員から先に食べてもらいます。
私なりのLove & Profit 愛と利益は、
先生と働いて損した
…と言われないようにしていることです。
利益は大切だと思います。
医学講座
杉田敏先生への感謝
今日は2021年3月27日(土)です。
今日で杉田敏先生の実践ビジネス英語が終了します。
33年間も休まずにありがとうございました。
33年前は函館中央病院に勤務していました。
上司の濱本淳二先生が杉田先生のやさしいビジネス英語をすすめてくださいました。
聴いてみるとやさしくはありませんでした。
■ ■
濱本先生は勉強家でした。
函館中央病院に勤務していた時に、
近くの大文堂という書店で英会話教室をしていました。
ポール遠藤先生という男性の先生から、
濱本先生と一緒に英会話を習いました。
英会話教室はその時だけでしたが、
杉田先生のビジネス英語を聴き続けました。
■ ■
途中で挫折したこともありましたが、
JA帯広厚生病院に勤務していた時に、
JOYの浦島久さんが開催してくださった講演会で杉田先生にお会いしてから、
本格的に聴くようになりました。
20年以上はまじめに聴いています。
英語が赤点だった私が、
英語好きになれたのは杉田先生のおかげです。
これからもお元気でご活躍なさってください。
ありがとうございました。
■ ■
杉田先生のお言葉です。
米国の新聞社やPR企業でキャリアを積んできた私が出した本がNHKの担当者の目に留まり、『やさしいビジネス英語』という講座を引き受けたのが1987年のことです。NHKでは初めてのビジネス英語講座でした。
経営者としての仕事もあり、6か月だけのつもりだったのですが、気づいたら30年以上が経っていました。この間、複数の仕事をこなしてきたため一日15時間近く働くこともざらでしたが、最新のテクノロジーも駆使して情報収集に努め、最新の話題を皆さんにお伝えしてきたつもりです。
そして、私が一貫して掲げてきたテーマが、Love & Profit(愛と利益)です。社員や顧客や社会に対して愛を持って接しながら、利益もしっかりと出し、社員や株主などに還元する、という考え方です。読者の皆さんの心の中に『実践ビジネス英語』の理念が残ったらうれしく思います。
医学講座
とくダネ!最終回
今日は2021年3月26日(金)です。
私は毎朝フジテレビを見ています。
めざましテレビの
きょうのわんこ
8:00からは小倉智明さんの、
とくダネ!です。
■ ■
残念なことに、
今日が最終回でした。
22年間も毎日早朝からありがとうございました。
小倉智昭おぐらともあきさんは、
1947年5月25日(昭22年5月25日)生まれで、
私より7歳年上です。
病気を克服されて、
また元気でTVに出演される姿を見て、
よかったと思ってました。
■ ■
2021年3月は、
杉田先生の実践ビジネス英語が終了します。
小倉さんのとくダネ!も終了してしまい、
66歳の私はちょっとさびしい思いです。
私は定年がない開業医なので、
迷惑にならない限りは続けます。
毎朝、新鮮な話題を提供してくださった、
小倉智昭さんに感謝いたします。
ありがとうございました。