昔の記憶
小田島哲哉先生の米寿を祝う会
昨日(2015年4月12日)東京で、
小田島哲哉先生の米寿を祝う会がありました。
私が15歳だった45年前に、
北海道夕張市の山奥、大夕張おおゆうばりで、
NHKの中学生の勉強室の講師だった先生です。
私を国語好きにしてくださって、
小田島先生ありがとうございました。
…といつかお礼を言いたいとずっと思っていました。
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その思いを、
この院長日記で何回か書いたところ、
たまたま先生の目にとまりました。
先生からお手紙をいただきました。
昨年秋には、
さくらんぼさんの果物をお送りしました。
とても喜んでいただきました。
ありがたいことに、
米寿を祝う会に私を招待してくださいました。
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昨日の東京は暖かでいいお天気でした。
はじめてお会いした小田島哲哉先生は、
私が45年前にNHKでお聴きした通りの先生でした。
88歳なのにとてもお元気でした。
私たちに、
国語の先生のように、
お話しをしてくださいました。
原稿なしで、
とてもいいお話しでした。
東京まで行った甲斐がありました。
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小田島哲哉先生は、
昭和2年4月15日、東京でお生まれになりました。
江田島の海軍兵学校に進まれました。
昭和20年の終戦で東京に戻られた時、
ご実家は空襲で焼かれ、
残っていたのは2本の石の門柱だけでした。
食料がありません。
当時は米穀通帳がなければ、
米を買うことができませんでした。
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兵学校へ行っていて、
親類縁者もなかったので、
小田島先生は米穀通帳を持っていませんでした。
寮のある学校へ進学しようと試験を受けても、
米穀通帳を持っていない学生さんには、
食事を出せないので餓死すると言われたそうです。
若い小田島哲哉さんを助けてくださったのが、
先生の恩師だった先生たちでした。
餓死しそうだった青年に
自分たちの食料から分けて
食事を与えてくださったそうです。
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困っていた時に、
かつての恩師に助けていただき、
小田島先生は教育者としての道を歩むことにしました。
先生は、
都立高校の先生になりました。
当時、英語の教員免許を持っていた先生が少なく、
最初は英語と国語の両方を担当されたそうです。
大学の教員にならないかという誘いもあったそうですが、
小田島先生は高校の先生になりました。
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小田島先生のお話しから、
♡子供に夢をあたえる教育♡
♡夢を持つことが生きがい♡
♡夢を持つことの大切さ♡
…を教えていただきました。
米寿を祝う会には、
先生の教え子や、
教育関係、
古くからのご友人が
たくさん集まっていらっしゃいました。
とても楽しい会でした。
お世話になった明治書院の方たちに御礼申し上げます。