昔の記憶
小田島哲哉先生88歳のお誕生日
今日4月15日は、
小田島哲哉先生の88歳のお誕生日です。
45年前、
北海道夕張市の山奥で、
NHKラジオの中学生の勉強室でお世話なった先生です。
私を国語好きにしてくださった恩人です。
小田島先生の国語を聴いていなかったら、
私は一生国語苦手を克服できなかったと思います。
小田島哲哉先生に感謝しています。
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平成27年4月12日に東京の日本出版クラブ会館で開催された、
小田島哲哉先生の米寿を祝う会で、
先生のお話しを伺いました。
実にいいお話しでした。
今日はその続きを書きます。
私たちの次の世代にも聴いていただきたいお話しです。
■ ■
私は昭和29年9月生まれです。
安倍晋三首相と同じです。
私たちは戦争を知りません。
私が子供の頃に、
父親と風呂に入っていた時に、
仙台で空襲に遭ったことを聞きました。
なぜかこの空襲の話しはよく覚えています。
■ ■
私の父親は、
札幌工業高校の木材工芸科という、
家具などをつくる学科へ進学しました。
薬学専門学校へ行くと、
徴兵免除になったので、
(戦争に行って死にたくなかったので)
仙台の東北薬学専門学校へ進学しました。
■ ■
戦争中の仙台で空襲に遭(あ)い、
山へ避難して難を逃れたと、
私が子どもの頃に聞きました。
途中の防空壕(ぼうくうごう)で、
学生さんここに入りなさいと、
親切に言ってくれた人がいたそうです。
父はその防空壕へは入らず、
山へ逃げたそうです。
■ ■
空襲が終わって、
山から下りる時に、
その防空壕は焼夷弾(しょういだん)に撃たれ
防空壕の人たちは亡くなっていた。
あの時、
逃げていなかったら死んでいたと、
聞かされた覚えがあります。
子どもの頃に聞いた話しを
何故かよく覚えています。
■ ■
小田島先生が進まれたのが、
江田島の海軍兵学校です。
何もわからない私が、
先生の履歴を見た時に、
『先生は海軍士官になりたかったんだ』
…と勝手に思っていました。
それは違いました。
■ ■
いろいろ調べてみると、
当時、江田島の海軍兵学校は、
今の東大(理Ⅲ)や京大(医)に進学するのと同じか、
それ以上に難易度が高い学校でした。
海軍兵学校からは、
たくさんの優秀な人が出ています。
海軍は陸軍と違って、
敗戦を予想していました。
■ ■
陸軍は英語を禁止しましたが、
海軍兵学校は、
校長の権限で英語の勉強を続けさせました。
昭和20年の終戦の時に、
若き小田島先生が副校長から、
日本は敗れたけれど、
諸君がこれから日本を復興させる。
米軍が来ても死んではいけない。
日本はまた復興する。
…と教えられたそうです。
■ ■
小田島先生のお言葉の中に、
戦争はいけない
子供たちが自由に夢を持てる国にしなくてはいけない。
…というメッセージが込められていました。
戦争を知らない私たちの世代や、
私たちの次の世代に、
戦争の悲惨さやつらい日々を教えていただきたいと思いました。
小田島先生は、
中国との交流にも力を入れられ、
何回も中国を訪問していらっしゃいます。
近隣諸国とも仲良くしたいと思いました。
小田島先生、これからもお元気で、
私たちにたくさんのことを教えてください。
お誕生日おめでとうございます。