昔の記憶

NHKラジオ_中学生の勉強室

 私は北海道夕張市の、
 一番山奥にある、
 大夕張(おおゆうばり)の、
 夕張市立鹿島中学校を卒業しました。
 山奥でしたが…
 炭鉱街の学校でしたので…
 一学年は7クラスでした。
 大夕張で3年間を過ごしました。
      ■         ■
 中学校3年生まで、
 私は国語が苦手でした。
 国語が得意になったのは、
 中学校3年生の時に聴いた…
 NHKラジオの
 中学生の勉強室という番組のおかげです。
 国語の担当が
 東京都立八潮高等学校の
 小田島哲哉先生でした。
      ■         ■
 国語は毎週金曜日でした。
 小田島先生の語り口が穏やかだったのと、
 テキスト本文の朗読がありました。
 朗読は東京放送劇団などに所属する、
 プロの方が担当されていました。
 何て上手な読み方だろう…
 耳をそばだてて聴きました。
 私はこの中学生の勉強室で、
 国語が好きになり…
 得意科目になりました。
      ■         ■
 今こうして…
 院長日記を書き続けられるのも…
 小田島先生のおかげです。
 40年たっても感謝しています。
 中学生の勉強室で放送してくれた…
 有島武郎(ありしまたけお)の
 『生まれ出づる悩み』
 が函館ラ・サール高校の入試問題
 そのまま出ました。
      ■         ■
 小田島先生が講義で教えてくださった…
 有島武郎
 たけおの読み方。
 落葉松
 からまつの読み方。
 40年たった今でも…
 はっきりと覚えています。
 私は中学生の勉強室を聴かなければ…
 おそらく志望校への進学は無理だったと思います。
      ■         ■
 中学生の勉強室を知ったのは…
 母親が中学の優秀な先輩が…
 NHKラジオで勉強している…
 と聞いてきたからでした。
 夕張の山奥には…
 優秀な人がたくさんいました
 今はどうしていらっしゃるか…?
 わかりませんが…
 東大文Ⅰに合格した人もいました。
      ■         ■
 山奥の田舎にいても…
 電波で届くNHKのラジオ講座は…
 日本全国で同じです。
 私と同じように…
 NHKで勉強した世代の人がいると…
 ネットで検索して知りました。
 群馬ケンミンさんのブログには、
 懐かしい、
 NHKのテキストがありました。

“NHKラジオ_中学生の勉強室”へのコメント

  1. さくらんぼ より:

    山形でも 民放でですが、山形新聞にも掲載されている 中学生実力養成講座が早朝あります。私は 元気な頃は朝仕事を4時頃からしていたのでラジオが友達でした。塾の先生が毎日科目ごとに解説してくださいます。今は夜もあるようです。朝は宗教の時間とかもあり 面白かったです。体を悪くしてから朝仕事はひかえていますが、。 継続は力なりですね。 長男に先生の英語力を話しました。英会話は仕事上習っていますが、先生はわれわれ凡人とは頭のできが違うのだろうと言ってましたよ。
    ところで 息子次男は準夜勤+夜勤を終え 帰宅途中 居眠り運転をして 車が大破してしまいました。みなさんも夜勤明けは気をつけてください。

  2. ちゃー坊 より:

    先生の前の日記にも書かれておりましたが、大夕張に3年間過ごされたとの事。

    私も父が昔、営林局に勤めていた関係で幼稚園から小学校5年まで、

    大夕張の鹿島千年町に住んでおりました。

    今は跡形もないですが、鹿島東小学校に通い、当時は松組 竹組で

    札幌に転校して1組 2組・・・6組位まであり、ビックリしました。

    山、川、湖、大自然の中、たくさんの草花や虫、化石など

    都会で味わえない生活を楽しんだ記憶は消えないな・・・と感じました。

  3. shun より:

    懐かしいですね。私も中3のとき、田舎暮らしで、当時は塾もなく、お金もなかったので、これで勉強しました。これとは別に、基礎英語、続基礎英語もラジオで聞いていました。そのおかげで英語が好きなり、どんどん英語力が身につきました。ぎりぎり無理って言われた高校も見事合格しました。今は、中学生の勉強室はなくなっているようですが、当時はこれが頼りでした。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。この院長日記のおかげで、国語の小田島哲哉先生とお話しすることができました。札幌の先生のご友人の方がご紹介してくださり、先生からお便りをいただきました。感無量でした。先生はお元気です。東京でお一人で暮らしていらっしゃいます。

  4. 関西のおばさん より:

    はじめまして。中学生の勉強室をふっと思い出して、検索してこちらを知りました。先生と同世代だと思います。私が3,4年下でしょうか。
    国語の先生、本当に穏やかな語り口でしたね。お名前までは覚えていませんでしたが、記事を読んでああ~そうだったあと思いました。

    手紙をいただいた方には全員に返事を差し上げているということを書いておられたことがあって、お忙しいだろうにすごく義理堅い方だなあと思ったのが印象に残っています。
    先生とご縁が繋がったということ、本当に良かったですね。そういうことがあるんですね、びっくりです。今もお元気なんでしょうか、相当のご高齢ですよね。

    あと私が覚えているのは数学の森本順友先生です。数学が得意でもなかったのに何故か名前を憶えているんですが。検索しても情報が何も出て来ないのが残念です。
    先生は覚えておられますか。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。数学の森本順友先生もよく覚えています。残念なことに国語の小田島哲哉先生は今年の春にご逝去されたと伺いました。ほんとうにいい先生でした。ご冥福をお祈りしています。

  5. 岡島 良之 より:

    同感です,小田島哲哉先生の講義は今でも覚えています。
    ところで,そのテキストに出ていた,「跨線橋を渡る人の思いを」うたった詩句,「いつの日思ったであろう …」
    ご存じのかたいらっしゃいましたら,作者とその詩句,お教え願いたいのですが。岡島 良之(73歳)

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。残念ですが小田島哲哉先生はご逝去されました。今でも優しい語り口を覚えています。申し訳ございません。先生の「いつの日思ったであろう …」は存じません。

  6. 岡島 良之 より:

    私は都立北高校で新卒の英語教諭時代,数学の森本先生とご一緒しました! 「じゅんゆう もりもと」のあだ名で,口癖は「ぺけー」で,よく生徒は真似ていました。
    たまたま,「いつの日思ったであろう」の詩句を探していて,このサイトに出会いました。付録に毎号「名画のコピー」がついていました。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。数学の森本順友じゅんゆう先生も覚えております。わかりやすい数学の解説でした。

  7. 中嶌秀一 より:

    岡島良之先生。都立北高等学校で先生が担任なさったクラスにいた中嶌秀一と言います。覚えていらっしゃいますか。
    残念ながら私には森本先生の記憶はないのですが、岡島先生の記憶だけは鮮明に残っています。

  8. 団塊の世代 より:

    団塊の世代の私も中学生の勉強室を聴きました。当時 私は浜松に住んでおり この番組は中2、3と聞きました。中2は番組開始の年で5月から始まったと記憶しております。岡島さんが投稿されている「いつの日思ったであろう …」は、下の資料では、。私もその内容を覚えております。
     大宮図書館[文学資料コーナー]第15回企画展
     展示資料目録 No.19

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。小田島哲哉先生はご逝去されましたが、私たちの記憶の中にしっかりと残っています。貴重な資料をありがとうございました。

  9. 伊集院 隼人 より:

    私も中学生の頃(1975年9月半ば~1978年3月)に、従兄に薦められて『中学生の勉強室』を聞いておりました。この従兄は駒場東邦から現役で東大文Ⅰに合格した秀才だったので、疑うことなく助言に従ったのでした。私は福岡に住んでいたので、修猷館から1浪して京大に進学しましたが、この番組は大いに助けになりました。
     ところで本間先生は、国語は小田島哲也先生の放送を聞かれていたようですが、私は別の先生だったと記憶しています。国木田独歩の『画に悲み』や夏目漱石の『夢十夜』が強く印象に残っています。確か当時は、都立富士森高校の先生だったと思うのですが、ご存じありませんか?

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。私が中学生の勉強室を聴いたのは、昭和43年(1968年)と44年(1969年)だったと記憶しています。有島武郎(ありしまたけお)の『生まれ出づる悩み』が函館ラ・サール高校の入試問題に出ました。1978年には小田島哲哉先生が交代されていたのでしょうか? 数学は森本順友先生でした。

  10. 岡島良之 より:

    大宮図書館[文学資料コーナー]第15回企画展
    展示資料目録 No.19から見つ~けました。61年ぶりの邂逅です!それから,中嶌秀一君よ~く覚えています!
    陸橋  大木実 
    いつの日おもったであろう
    この町に住むことを
    こうした生活を迎えることを
    朝あさ陸橋を渡るたび
    歩廊についた列車を眺め
    多くの旅びとを窓にみるたび
    この町に住むわたしの身を
    過ぎた月日とさまざまなできごとを/
    かつて わたしも
    あのひと達のように
    列車の窓に寄りこの町を眺め
    旅びととしてここを過ぎた
    いま その町にわたしは住む
    妻と子を持ち
    朝ごとに陸橋をこえて勤めへ通う/
    「NHK中学生の勉強室1962昭和37年
    国語小田島哲也都立八潮高先生

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    岡島先生コメントをいただきありがとうございます。小田島哲哉先生はお亡くなりになってしまいましたが、こうしてコメントをいただくことが供養なのかな?と思っております。私は小田島哲哉先生のおかげで国語が好きになり得意科目になりました。

  11. 伊集院 隼人 より:

    お返事ありがとうございました。

    >1978年には小田島哲哉先生が交代されていたのでしょうか? 数学は森本順友先生でした。

    1975年~1978年はもう小田島先生ではありませんでした。吉田兼好の『徒然草』の講義で、著者を「兼好法師」と呼んでいたので、気になった先生でした。今では「兼好法師」の呼び名が一般的になり、だれも「吉田兼好」とは呼ばなくなったので、先を見る力のある先生だったと思っています。数学の森本順友先生はまだご健在で、私もその授業を聞いた一人です。
    なお先のコメントでは変換を誤って『画の悲み』を『画に悲み』としてしまいました。謹んで訂正いたします。

    【札幌美容形成外科@本間賢一です】
    コメントをいただきありがとうございます。森本順友先生も覚えています。私は高校時代に数学で苦労しました。大学受験ラジオ講座の寺田文行先生と勝浦捨造先生の講義をよくお聴きしました。英語の西尾孝先生の声もよく覚えています。

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