医学講座

豊かさを追って_ニトリの挑戦①

 今日からはじまった北海道新聞朝刊の連載です。
 私が尊敬する、
 ニトリの似鳥昭雄社長が掲載されています。
 少し長いですが、新聞の一面と二面に掲載された、
 記事の全文を引用します。
 北海道が生んだ経営者です。
 ぜひ、若い人にも読んでいただきたいです。
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 豊かさを追って ニトリの挑戦>1 
 製造から販売まで 市場成長捉え業績拡大
 「これは当社にない商品です。ぜひ扱いましょう」「私に工場の開拓から担当させてください」
 2015年10月下旬、まだ蒸し暑い中国・広州。ここはアジア最大級の展示商談会「広州交易会」の会場だ。118万平方メートルの広大な会場に中国内外の2万4700社が集まる。雑貨やインテリアなど多くの見本品が並ぶ一角で日本語が飛び交う。声の主は、家具・インテリア製造販売日本最大手ニトリホールディングス(HD、札幌)の商品開発担当者たち。耳を傾けるのは似鳥昭雄(にとりあきお)社長(71)である。

 同社は毎年の春と秋、新商品のタネを見つけるため商品開発担当者を100人規模でこの交易会に送り込む。ただ、担当者が目を付けた商品があっても、そのまま仕入れはしない。形を工夫して使いやすくできないか。材質を変えてコストを下げられないか―。出展企業と交渉を繰り返し、似鳥社長に採用を提案する。

 「よし。いいじゃないですか」。社長のゴーサインが出ると開発担当者の顔がほころぶ。社員の提案を受ける間も、出展企業のブースで展示品の売れ行きを尋ねたり値段をチェックしたりと似鳥社長は忙しい。

 日本とアジアを中心に400店余りを展開し、毎年50店以上のペースで店を増やすニトリHD。いまや単なる家具・インテリア販売業者ではない。強さの秘密は商品の製造から運搬、販売まで1社で手がける、世界でも珍しい事業モデルにある。それを彼らは「製造物流小売り」と呼ぶ。

 本年度の売上高は4500億円に達する勢い。その商品のほとんどはアジア製だ。インドネシアとベトナムに自前の家具工場があるほか、「ホームファッション商品」と呼ぶ繊維製品や雑貨の多くは中国、 マレーシア 、 タイ などの工場に生産を委託している。

 ニトリの店舗で売ることを前提にした価格・デザインで必要な量だけ発注する。プライベートブランド(PB=自主企画)と呼ばれる商品の調達方法だ。

 ニトリHDが扱う商品の実に9割がPB。PBは品質・価格をコントロールしやすく、利幅も大きい。PBを多く持っていることが、同社の競争力の源泉である。冒頭の広州交易会は、こうした商品調達のきっかけをつかむ重要な場となっている。

 中国で生産された商品は、上海や恵州の巨大な物流センターに集められ、船で日本各地へ送られる。ニトリHDは物流センターの運営から船の手配まで、すべて自社で行っている。

 いずれも、できる限りコストを下げ、手頃な値段で売るための工夫だ。

 「世界の工場」と呼ばれるアジアは近年、市場としての魅力も高めている。訪日客による「爆買い」に象徴されるように、庶民の懐が豊かになったからだ。ニトリHDは台湾と中国本土に店を構えはじめており、アジアの成長と歩調を合わせて業績を伸ばそうとしている。それは、トヨタ自動車や「ユニクロ」を展開する ファーストリテイリング といった日本を代表する有力企業の多くがたどった道でもある。

 「29期連続の増収増益でいけると思います」。2015年9月に東京都内で開かれたニトリHDの中間決算発表会。報道陣らを前に説明する似鳥社長は誇らしげだった。

 増収増益とは売上高も利益も増えること。企業が成長している証しである。ニトリHDは本年度、売上高と本業のもうけを示す営業利益の両方が29年続けて前年度を上回る見込みだ。

 2008年に起きた金融危機の後には、日立製作所やパナソニックといった名だたる有力企業でさえ赤字に転落した。その中でニトリHDは、上場企業における連続増収増益の日本記録を塗り替え続けている。

事業モデル、米国に原点

 アジアを舞台に成長を続けるニトリホールディングス(HD)。その原点は米国にあった。

 日本とは比べものにならないほど洗練された家具・インテリア商品。しかも値段は日本の3分の1―。

 1972年に似鳥昭雄社長が米国の家具・インテリア店で見た光景が、その後のニトリHDの歩みを決めた。当時、同社は札幌に2店を構えるだけで、経営は火の車。最先端の流通手法を学ぼうと、借金までして渡米した似鳥社長に決意が芽生えた。「米国の豊かさを日本でも実現したい」

 米国で目に焼き付けた商品を、日本でも同じほどの値段で売りたい。それには、メーカーがつくり、問屋が卸し、物流会社が運ぶという日本の事業慣行を変えなければならない。ニトリHDの挑戦が始まった。

 日本の住環境を豊かにするという大志を抱いたはよいが、ノウハウも人材もない。手頃な値段で商品を売るには、店を増やして安く大量に仕入れる必要がある。だが、頼りになるのは勘と勢いだけ。1970年代には、海外で商品を低コスト生産できるほど経営規模が大きくもなかった。

 精いっぱいの「企業努力」は、夜中にこっそり国内メーカーを訪ねて回り、問屋を通さず家具を仕入れることだった。それもすぐ問屋に知られ、そのメーカーとは取引できなくなる。その繰り返し。「そうは問屋が卸さない」のことわざ通り、当時はメーカーや家具店に比べ問屋の力がずばぬけて強かったのだ。

 国内で取引できるメーカーはみるみる減り、切羽詰まった似鳥社長は目を海外へ向ける。安くて質の良い商品を求め、ニトリHDが1980年代にアジアへ飛び出していった背景にはこんな事情があった。
近代流通理論と共に
 ダイエー、 イトーヨーカ堂 、ジャスコ(現イオン)。日本流通史を彩るこれらの企業には、ニトリホールディングス(HD)と共通点がある。2010年に83歳で亡くなった経営コンサルタントの渥美俊一(あつみしゅんいち)氏を師と仰いだ点だ。渥美氏は1962年にチェーンストア研究団体「ペガサスクラブ」を設立し、流通業の近代化に尽力した人物として知られる。

 チェーンストア(チェーン店)とは同じ看板、同じ外観、同じサービス内容で多くの店舗を管理・運営する経営のあり方をいう。

 店を増やして有利な条件で仕入れを行う。集中出店して配送コストを下げる。消費者が買いたくなるようなプライベートブランド(PB=自主企画)商品を委託生産する―。いまやチェーン店展開の常識となった理論を、渥美氏は高度経済成長期の若き流通経営者にたたき込んでいった。

 ニトリHDが同クラブに加入したのはまだ札幌の家具店だった1978年のこと。だが、すぐ経営が軌道に乗ったわけではない。

 渥美氏が初めて札幌にニトリ店舗を訪ねたのは1980年。視察した渥美氏は、商品の質や陳列の仕方から始まり、社員教育や売り場の床色の果てまで否定し、「教える価値がない」と烈火のごとく怒ったという。おそれをなした似鳥社長は同クラブから約2年も足が遠のいたほどだった。

 ただ、その間にほかの経営手法をいくら勉強しても、効率的な出店や運営コスト削減は実現できない。「やはり渥美先生しかない」と気付いた時からニトリHDの成長が始まった。

 「運が良かった」。似鳥社長は自身の半生をそう振り返ることが多い。だが、その成功の裏には、日本の流通を変えたペガサスクラブという理論的な支柱があった。

高いPB比率、見習いたい 調剤薬局国内最大手アインホールディングス(札幌)の大谷喜一社長の話

 似鳥昭雄さんは私が目標としている経営者です。ニトリHDが売っているのは、9割が利幅の大きいPB商品。当社が展開するドラッグストア「アインズ&トルペ」では、化粧品や薬のPB商品がまだ数パーセントしかありません。似鳥さんを見習って、PB比率を50%に引き上げたいと思っています。

 似鳥さんの持ち味は、ペガサスクラブの経営理論を社内で徹底し、実行に移す強力なリーダーシップを持っていること。これほどの経営者は、もう北海道から出ないでしょう。

 40年前は札幌の小さな家具店にすぎなかったニトリHDは、アジア展開に大成功した道内企業の一つだ。「日本に豊かな生活を」と商売を志した似鳥社長はどうやって独自の手法を編み出し、ニトリHDを国内屈指の有力企業に育てたのか。「つながるアジア」第3部ではその秘密に迫る。
(東京報道センターの幸坂浩が担当し、5回連載します)
(以上、北海道新聞より引用)
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広州交易会で食器の品定めをする似鳥社長(中央)。商品開発担当者に次々と指示を出していく=10月25日(幸坂浩撮影)

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(以上、北海道新聞より引用)

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 私は北海学園大学経営学部のニトリ寄附講座
 直接、似鳥昭雄社長から講義をお聞きしました。
 私の経営に対する原点です。
 似鳥社長は、
 いつも笑顔
 社員にも、
 奥様にも
 ありがとう
 なかなか真似はできません。
 おねだん以上は、
 札幌美容形成外科も真似しています
 私の好きな言葉です

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