医学講座
形成外科42年のあゆみ②
私は1954年9月8日に市立札幌病院で生まれました。
病院のすぐ近くに母親の実家がありました。
母親は5人きょうだいの2番目で、
小学4年生の時に父親が亡くなりました。
祖母が一人で男4人女1人の5人の子供を育てました。
30代で未亡人になって財産もないのに、
よく一人で育てたと思います。
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市立札幌病院の近くの借家で、
和裁の仕事をして、
その収入で子供を5人育てました。
今、考えてもよく育てたと思います。
市立病院のおばあちゃんと呼んでいました。
私は祖母が大好きでした。
家内が私の家にはじめて来た時にも、
真っ先に祖母に紹介しました。
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私の父親は病院勤務の薬剤師でした。
私が小学校2年生まで、
札幌郡手稲町金山にあった、
三菱鉱業の結核療養所で働いていました。
病院の職員住宅に住んでいました。
近所の子どもたちは病院職員の子供でした。
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お医者さんごっこをして遊んでました。
お父さんの仕事と同じ役割分担でした。
・マーちゃんがお医者さん。お父さんは小山先生(内科医)。
・はるみちゃん(マーちゃんの妹)が看護婦さん。お母さんが元看護婦さん。
・ひろすけちゃんが事務長さん。お父さんは小林事務長さん。
・まさるちゃんがレントゲン技師さん。お父さんは、レントゲン技師の草野さん。
・私が薬剤師。父は薬剤師の本間寛でした。
患者さん役が誰だったか?どうやったか?は覚えていません。
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お医者さんのマーちゃんが‘診察’をして、
看護婦さんのはるみちゃんが介助します。
レントゲン技師のまさるちゃんがレントゲンを撮ります。
注射は、看護婦さんのはるみちゃんが担当。
薬剤師のケンちゃんは、マーちゃんが処方したお薬を作ります。
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私は、土を集めて、サラサラにして、お薬を調合。
木の葉っぱに包んで、
「はい、お薬ができました」という係りでした。これは今でも覚えています。
私はこの薬の係りが好きでした。
少し大きめの葉っぱを集めて、さらさらにした土を、おままごとの皿に入れて調合しました。
看護婦さんの、はるみちゃんが「はーい、お口を開けて!」と飲ませるマネをしていました。
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お医者さんは血も見なければいけないし大変だから、
自分は薬剤師でよかった!と子供心に思ったのを覚えています。
マーちゃんのようにお医者さんになりたいとは、
まったく考えていませんでした。
大人になってからは、
マーちゃんが歯科医師、
はるみちゃんは薬剤師になりました。
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小さい時にお医者さんごっこをしたのと、
私が医師になったのは、
まったく関係ないと思っています。
父親が働いていた結核療養所には、
よく子供たちが遊びに行ってました。
自分の周囲に医療関係者がたくさんいたことは、
病院で働くことに少しは影響したかな?と思っています。