医学講座
形成外科42年のあゆみ③
私の楽しかった子供時代、
手稲での生活は小学校2年生まででした。
結核患者の減少で、
三菱鉱業は手稲療養所を閉鎖しました。
病院は札幌市琴似八軒ことにはちけんで開業していた、
ルカ病院に売却され手稲ルカ病院になりました。
父親は三菱鉱業の茶志内ちゃしない炭鉱病院に転勤になりました。
マーちゃんのお父さん(小山先生)は赤平市の、
茂尻もじり炭鉱病院に行かれました。
■ ■
縁とは不思議なものです。
私の祖母(太田キヨ)はマーちゃんのお父さん、
小山昌正おやまよしまさ先生のことを、
ヨシマサさんと呼んでいました。
小山昌正先生は祖母のことをおばさんと呼んでいました。
私は子供ながら不思議に思っていました。
■ ■
小山先生が北大医学部の学生だった頃、
祖母の家の近くに親戚があり、
よく遊びに来ていたそうです。
私の母とも母の兄とも親しかったそうです。
それもあって、
私の家とマーちゃんの家は、
ふつうのご近所以上に親しくお付き合いをしていただきました。
今でも母親(94歳)の一番の仲良しがマーちゃんのお母様(94歳)です。
■ ■
『今日はおじさん(マーちゃんのお父様)が当直でいないから泊まりにいらっしゃい!』
…と泊まりに行ったことが何度もありました。
母親から『あんたはマーちゃん家チにお泊りに行って、
お客さん用のフトンにおねしょをした!』と子供のころに何度も言われました。
子供だから、おねしょくらいするでしょ!、
…と今なら反論できますが傷ついた記憶があります。
マーちゃんは、背が高くて、頭がよくて、
母からよく『あんたも、マーちゃんみたいになりなさい』と言われていました。
■ ■
マーちゃんはリーダーでカッコよかったので、
私もいつかはマーちゃんに追いつきたいと思っていました。
ただ、手稲にいた頃には、
自分がお医者さんになりたいとか、
いつかお医者さんになってやろうとか、
夢にも考えていませんでした。
私は血を見るのがこわくて、
お医者さんは絶対に無理だと思っていました。
昔はタライでした
その後ろが妹のはるみちゃん
最後尾が私ケンちゃんです
“形成外科42年のあゆみ③”へのコメント
コメントをどうぞ
おねしょをしたのは
幼少期だったので
しかたないですよね。
マーちゃんは2台のそりを
引いていたのですか?
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。マーちゃんは2台のそりを引いて、私たちと遊んでくれていました。私たちのあこがれでした。まさか60年後にも親しくしていただいているなんて、よほどご縁があったのだと思います。マーちゃんにうちの奥さんの顎関節症を治していただきました。優秀な歯科医です。
タライの産湯に木製のソリ、
とても貴重なお写真
ありがとうございます。
開拓の村で見たことがありました。
先生のお母様とマーちゃんの
お母様のご縁が長く続いていらっしゃる
のは、お気持ちが通じ合えたからなの
でしょうね。
絶対に無理だと思っていた、
お医者さまになっている人生は
不思議だと思いました。
子供の未来の可能性はわからない
ですね。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。私が人生で一番長くお付き合いさせていたただいているのが小山おやま先生ご一家です。よほどご縁があるのだと思います。たらいを見たことがある人はいないですよね。
縁とは不思議なものですね。
私も昔の想い出が甦ります。
今日も夕方迄仕事をして明日入院しまます。
【札幌美容形成外科@本間賢一です】
コメントをいただきありがとうございます。縁は異なものと言いますね。私とさくらんぼさんのご縁も不思議です。もう15年になります。親戚以上のお付き合いをさせていただき感謝しています。とてもいい先生です。治していただきましょう。