医学講座
形成外科42年のあゆみ⑮
形成外科42年のあゆみが長くなりました。
つまらない院長日記にお付き合いいただきありがとうございます。
自分史を書いているようで、
なかなかやめられません。
もう少し続けさせてください。
大夕張から札幌に来るために、
私の両親はかなりがんばってくれました。
■ ■
私の高校進学とともに、
私と弟、母の3人が札幌に来ました。
父親の母が住んでいた、
西区八軒はちけんの家に引っ越してきました。
お世辞にも立派な家とは言えませんでした。
トイレは水洗式ではありません。
最初はお風呂もなく銭湯に通っていました。
■ ■
私たち3人は、
七畳くらいの一部屋に、
私と弟と母親が
寝泊りしていました。
私と弟は2段ベッド。
母親は床に布団を敷いて寝ていました。
壁が汚かったので、
ペンキを買ってきて自分たちで塗りました。
床は父親がフローリングを自分で貼りました。
■ ■
父親が昭和36年に購入した中古の建売木造住宅でした。
昭和30年代に建てられ、
父親が自分の叔父との裁判で、
円山にあった土地と建物を失ったので、
その建売住宅を買ったようです。
お金がなかったので土地は長い間借地でした。
最初は父の両親と弟妹が住んでいました。
■ ■
そのボロ家から私は札幌西高校に通っていました。
見栄を張っていたつもりはありませんが、
高校時代、同級生に、
『今度、本間の家(ホンマンチ)へ行ってもいぃ?』
と言われるのが一番困りました。
友人に来てもらうような家ではありませんでした。
友人の家は、
西区西野の閑静な住宅地にあり、
新築の立派な家でした。
■ ■
私の家には友人を呼んだ記憶がありません。
けんいち少年は、
そこからバスと徒歩で西高に通っていました。
お金がなかったので母親は働きに出ました。
北海道新聞に載っていた求人広告をよく見ていました。
40歳を過ぎると雇ってくれるところがないと、
よくぼやいていました。
■ ■
森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
日本団体生命保険の外交員→
三菱信託銀行の財形貯蓄の勧誘員、
…それと私が大学に入ってから、
公益社団法人北海道不動産鑑定士協会
…で将来年金をもらえるようにと働いていました。
私たち息子2人が独立してからも、
鑑定協会で働いていました。
そこでたくさんの人脈を築き株も教えていただきました。
94歳になってもお金に困らず、
サ高住に住んでいます。
うさぎ小屋以下だった、
昔の本間家では考えられないことです。