医学講座

形成外科42年のあゆみ⑮

 形成外科42年のあゆみが長くなりました。
 つまらない院長日記にお付き合いいただきありがとうございます。
 自分史を書いているようで、
 なかなかやめられません。
 もう少し続けさせてください。
 大夕張から札幌に来るために、
 私の両親はかなりがんばってくれました。
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 私の高校進学とともに、
 私と弟、母の3人が札幌に来ました。
 父親の母が住んでいた、
 西区八軒はちけんの家に引っ越してきました。
 お世辞にも立派な家とは言えませんでした。
 トイレは水洗式ではありません。
 最初はお風呂もなく銭湯に通っていました。
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 私たち3人は、
 七畳くらいの一部屋に、
 私と弟と母親が
 寝泊りしていました。
 私と弟は2段ベッド。
 母親は床に布団を敷いて寝ていました。
 壁が汚かったので、
 ペンキを買ってきて自分たちで塗りました。
 床は父親がフローリングを自分で貼りました。
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 父親が昭和36年に購入した中古の建売木造住宅でした。
 昭和30年代に建てられ、
 父親が自分の叔父との裁判で、
 円山にあった土地と建物を失ったので
 その建売住宅を買ったようです。
 お金がなかったので土地は長い間借地でした。
 最初は父の両親と弟妹が住んでいました。
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 そのボロ家から私は札幌西高校に通っていました。
 見栄を張っていたつもりはありませんが、
 高校時代、同級生に、
 『今度、本間の家(ホンマンチ)へ行ってもいぃ?』
 と言われるのが一番困りました。
 友人に来てもらうような家ではありませんでした。
 友人の家は、
 西区西野の閑静な住宅地にあり、
 新築の立派な家でした。
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 私の家には友人を呼んだ記憶がありません。
 けんいち少年は、
 そこからバスと徒歩で西高に通っていました。
 お金がなかったので母親は働きに出ました。
 北海道新聞に載っていた求人広告をよく見ていました。
 40歳を過ぎると雇ってくれるところがないと、
 よくぼやいていました。
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 森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
 日本団体生命保険の外交員→
 三菱信託銀行の財形貯蓄の勧誘員、

 …それと私が大学に入ってから、
 公益社団法人北海道不動産鑑定士協会 
 …で将来年金をもらえるようにと働いていました。
 私たち息子2人が独立してからも、
 鑑定協会で働いていました。
 そこでたくさんの人脈を築き株も教えていただきました
 94歳になってもお金に困らず、
 サ高住に住んでいます。
 うさぎ小屋以下だった、
 昔の本間家では考えられないことです。

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