医学講座
形成外科42年のあゆみ⑥
形成外科42年のあゆみを書きはじめて6日目になりました。
まだ小学校のところです。
私がお伝えしたいのは、
小さい頃から医者になろうと思っていたのではなく、
血を見るのが嫌いで、
産科の実習で倒れたこともある私だったこと、
自分では考えてもみなかった形成外科医に
たまたまなったということをお伝えしたいので、
長々と子供時代からのことを書いています。
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1967年5月に私は美唄市茶志内ちゃしないから夕張市鹿島に引っ越しました。
父が勤務していた三菱茶志内炭鉱が閉山し炭鉱病院もなくなったためです。
山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
クネクネとした、狭い道路をバスに揺られて行きました。
清水沢しみずさわという町から、
バスは大夕張に向けて山に入ります。
私の目に入ったのは北炭の清水沢発電所から出る、
モウモウとした石炭の煙と、
石炭を洗った洗浄水によって真っ黒になった夕張川でした。
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大夕張の手前にはシューパロ湖というダムがありました。
森林鉄道で使ったという三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
ダムに向かって右奥はキレイな水の色をしていましたが、
大夕張炭鉱から排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
そのダムの遥か奥に1,668mの夕張岳がありました。
山奥に来たものだなぁ~というのが第一印象でした。
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美唄から大夕張に転校する前に、
大夕張では男子は全員丸坊主だという噂を聞かされました。
おでこを気にしていた私にとっては大問題でした。
丸刈りだけは勘弁してほしいというのが正直なところでした。
実際に鹿島中学校に転校してみると丸坊主の子が目立ちました。
美唄の茶志内中学校では、丸坊主の男子はゼロでした。
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幸い鹿島中学校でも丸刈りは強制されませんでした。
でも、中学校でも、私のおでこの広さは指摘されました。
一年生の時に同級生のMくんが
おでこの長さを測ろうと言い出しました。
私はイヤだったのですが、しぶしぶ応じました。
Mくんは、額が狭くその代わり後頭部が出っ張っていました。
本人もそれを気にしていて髪で隠すようにしていました。
当然、丸刈りは二人とも大嫌いでした。
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中学校で測った時は6㎝9㎜でした。
今、測定してみても同じくらいです。
人間の頭蓋骨の大きさはあまり変化しないようです。
私のことをおでこ。
将来は確実にはげるね。
…と言っていたMくんがはげました。
小学校の時の佐藤くんには会っていないので
その後どうなったかわかりません。
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私は、自分がおでこを気にしていたから、
形成外科医になったのではありません。
ただ、他人から見るとどうでもいいと思うようなことでも、
本人が悩んでいるのでしたら、
できるだけ力になってあげようと思います。
自分ががっかりした経験。
自分が困った経験。
英語でいうと、disappointing experienceがたくさんあると
他人の悩みも理解しやすいのかもしれません。
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鹿島中学校ではいじめにあいました。
英語の時間にRとLの発音がうまくできなかったため
英語の先生が『君は言語障害なのか?』と言ったあとで
ついたあだ名が『言語障害』でした。
先生に悪気があったとは思いませんが
教師たる者は言動に注意しなくてはいけません。
その後についたあだ名は『イカリヤ長介』でした。
私の下くちびるが少し出ていて、
当時はやっていたドリフターズの長さんこと
イカリヤ長介さんの下くちびると同じだというのが理由です。
中学校時代の写真はいつも下口唇をかんでいます。
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中学校時代に言われた経験と形成外科医になったことは関係はありません。
ただ札幌に来た時に、
中央整形の看板を見つけて、
ここに来たら下くちびるを治してもらえるのかなぁ~
…と本気で思っていました。
まさか自分が将来そこの副院長として雇ってもらえるとは、
夢にも考えていませんでした。