医学講座
形成外科42年のあゆみ④
楽しかった手稲ていねでの生活は、
小学校2年生の終わりまででした。
小学校2年生の3月に、
私の家は美唄市びばいし茶志内ちゃしないに転居しました。
父親は三菱茶志内炭鉱病院の薬剤師になりました。
私は日東美唄小学校にっとうびばい小学校に転校しました。
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美唄市びばいしは、明治時代に屯田兵とんでん兵が開拓した農業の町です。
大正時代に三菱鉱業が炭鉱をつくりました。
三菱、三井の財閥が炭鉱をつくって、
石炭と農業の町になりました。
国の石炭政策が変わり、
私が中学生の頃に炭鉱が閉山しました。
私が通った日東美唄小学校も閉校しました。
日東美唄小学校には炭鉱で働く人の子供たちと、
近くの農家の子供たちが通っていました。
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私は小学校3年生から中学校1年生の5月まで、
茶志内ちゃしないに住んでいました。
ここで友だちになったのが、
荒木田和生くんです。
荒木田くんは誕生日が同じ9月でした。
お父さんは病院ではなく、
三菱茶志内炭鉱のえらい方でした。
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私は荒木田くんと、
裏山に福寿草を取りに行ったり、
山にきのこを取りに行ったりしました。
茶志内でも自分が医者になるとは考えていませんでした。
何になるかわかりませんでした。
荒木田くんと遊ぶようになって、
お医者さんごっこではなく、
バンカースというゲームをするようになりました。
荒木田くんの家にはケンちゃんの家にないものがありました。
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茶志内で記憶に残っているのが、
今野こんの先生です。
今野先生のご子息は、
私の札幌医大の先輩です。
私が小学生の時に、
美唄東高校から、
札幌医大に進まれました。
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PTAの会合か何かで、
私の母親に、
息子さんはお医者さんにしなさい
…と言っていただいたそうで、
母親は、
今野先生がおっしゃっていたと
美唄を離れた後も言っていました。
先生の何気ない一言が私の中で、
医師になるというはじめての言葉です。
でも自分では医者になるとは考えていませんでした。